〔抄私訳〕
「酔酒スイシュの時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるゝ時節、かならず醉酒するなり。既是恁麼キゼインモは、尽十方界にてある一顆明珠なり。既是恁麼キゼインモは、尽十方界にてある一顆明珠なり」とある。
これもまた経文である。「酔酒の時節」とは、「一顆明珠」であり、与えられる物も、与える「親友」も与える「珠」も、みなこれは「一顆明珠」なのである。「親友」が「親友」に与え、「酔酒」が「酔酒」に与え、「珠」が「珠」に与える道理である。これが「一顆明珠」であるから、「既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり」と決められるのである。
「しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色ショウシキあり。既得恁麼キトクインモなるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり」とある。
日頃は凡夫であったのを、今明珠の道理であると知るのは、面を換えるのに似ているけれども、その「転不転」の姿は、ともに「明珠」であると言うのである。「明珠」の道理はこのようであると知れば、即ち「明珠」であると言うのである。以下は文の通りである。
「たどりうたがひ、取舎する作無作サムサも、たゞしばらく小量の見ケンなり、さらに小量に相似ソウジならしむるのみなり」とある。
「われは明珠にはあらじと」「たどりうたがひ」、「取舎する」顔つきは、しばらく「小量」に似ているが、「たどる」も「疑」も「小量に相似ならしむる」所も、みな明珠なのである。明珠以外の所がまったくないからである。
〔聞書私訳〕
/「酔酒」の時刻をそのままにしておけば、
極めて醒めた時節となるのである。
/「酔酒の時節にたまをあたふる親友あり」とは、我々衆生はみな酒に酔っているものである。酔う時節に必ず珠を与える、その意である。また、「たま」を与えるほどなら、酔っている時節とは言えないのである。
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿