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正7-5-2b 『第七一顆明珠』第五段−2b 聞書抄〔しばらく廻光返照すべし〕

 〔抄私訳〕

「しばらく廻光返照エコウヘンショウすべし、幾箇枚キコマイの用会作麼かある。

試道するには、乳餠ニュウヒン七枚、菜餠サイヒン五枚なりといへども、

湘之南ショウノミナミ、潭之北タンノキタの教行なり」とある。


これは、道元禅師のお言葉である。この「用会作麼」の言葉は、

ここだけに限らず、何千万もあるというのである。

一切のものに「用会作麼」の言葉があるのである。


「乳餠七枚、菜餠五枚」の言葉は、特別これに用があるわけではない。

ただ、「幾箇枚」と言ったので、「七」「五」の語を言うだけで、

これも古い言葉である。


また、「湘之南、潭之北」とは、大国でこの両国が並んでいるときに、

仮にその所を指して、あれは南、これは北と言っても、

ただ同じ所という意なのである。


これともあれとも言うのは、「一顆明珠」の道理である意味合いを

表すためである。「教行」という言葉が理解できないようであるが、

つまるところ、「教行」と言っても、何も違いはないのである。


〔聞書私訳〕

/「幾箇枚の用会作麼かある」とは、

「昨日」も「用会作麼」、「今日」も「用会作麼」という意味合いである。


/「昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日説不定法なり、推倒昨日点頭笑なり」とは、「説定法」を「説不定法」が押し返し、倒して笑うほどのことである。「説定法」と「説不定法」は同じであるからである。


                     合掌



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