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正7-3a『第七一顆明珠』第三段a 原文〔自分の生死去来ではないから仏の生死去来である〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 

 いま道取する「尽十方世界是一顆明珠」、はじめて玄砂にあり。


その宗旨は、尽十方世界は、広大にあらず微小にあらず、方円にあらず、

中正にあらず、カッパツパツにあらず露廻々ロカイカイにあらず。


さらに、生死去来ショウジコライにあらざるゆゑに生死去来なり。


恁麼インモのゆゑに、昔日曾此去セキジツソウシコ《昔日は曾カツて此より去り》にして、

而今従此来ニコンジュウシライ《而今は此より来る》なり。


究辦グウベンするに、たれか片ゝヘンペンなりと見徹するあらん、

たれか兀ゝゴツゴツなりと検挙ケンコするあらん。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

 ここに言う「尽十方世界これ一顆の明珠」

(すべての世界は一個の光り輝く宝珠である)は、玄砂が初めて言った言葉である。

(いま道取する「尽十方世界是一顆明珠」、はじめて玄砂にあり。)


その根本の趣旨は、あらゆる世界は、広大なものでも微細なものでもなく、

四角いとか丸いとかというものでもなく、中庸でもなく、

活発なものでもはっきりと露れているものでもないということである。

(その宗旨は、尽十方世界は、広大にあらず微小にあらず、方円にあらず、中正にあらず、

にあらず露廻々にあらず。)


〔ここの「あらずあらず」というのは、みな凡夫の邪見をはらったもので、「あらずあらず」の一々がみな「ありあり」である。〕


さらに言えば、自分の生死去来ではないから、仏の生死去来なのである。

(さらに、生死去来にあらざるゆゑに生死去來なり。)


〔生死生死という間は生死透脱はできず、自分が微塵もある間は安心できない。「生死は仏のおん命」というときが、生死を透脱する時節である。〕


このようであるから、過ぎた日はかつてこの一個の明珠から去った

のであり、今のこの時はこの一個の明珠から来たのである。

(恁麼のゆゑに、昔日は曾て此より去り、而今は此より来る なり。)


〔明珠から見れば去来はない、

明珠の去るも来るもみな明珠だというのである。〕


これを参究し明らかにすると、

珠というからそこらに幾つも転がっているようなものだと思ったり、

尽界を一貫する不動の一物があると思ったりするようなこと

はなくなるのである。

(究辦するに、たれか片々なりと見徹するあらん、たれか兀々なりと検挙するあらん。)


〔ではその珠はどんなものかというと、一顆の明珠はただ一顆の明珠だから、ただ尽界を一顆の明珠と認得すればよいのである。〕



                         合掌


『第七一顆明珠』第三段b 聞書抄〔自分の生死去来ではないから仏の生死去来である〕


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