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正6-29-2『第六行仏威儀』第二十九段②〔三世の諸仏は火焔の説法を地に立って聴くから諸仏なのである〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。


立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、

立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。


諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、

すでに三世諸仏とあるがゆゑに。


しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり。


一道の化儀ケギ、たどるべきにあらず。たどらんとするに、

箭鋒相拄センボウソウシュせり。



〔抄私訳〕

「立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、

立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。」とある。


「最尊なる諸仏」は「聴法」するという義はないと、一般には言う。この「諸仏」と「聴法」のすがたは以前にすでに述べた。「火焔」と「三世諸仏聴法」の間柄は、しばらくの間も別々にすべき道理はなく、ただ同じものである。同じものの上で談じるところであるから、「三世諸仏聴法」するとしばらく談じられるのである。


「火焔」も「聴法」し、「転法輪」も「聴法」し、「聴法」も「聴法」するのである。


「諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり」とある。


文の通りである。確かに「諸仏」は「果上」(悟りの上)と心得、「聴法」は「因中」(修行中)と分けるが、因果に関わらないから、「三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり」とあるのである。


「一道の化儀ケギ、たどるべきにあらず。たどらんとするに、箭鋒相拄せり」とある。


「化儀」(衆生を教化し導く方法)という言葉は、確かに教化されるどんなものにも具わっている機縁(機根と因縁)を置いて「化」(教化)として使うのであるが、今の「化」は、「火焔」と「三世諸仏」の間柄を「箭鋒相拄せり」(やじりとやじりが空中で互いに支え合った)と言うのである。互いに支え合っている力量である。


それと言うのは、「火焔」と「諸仏」が一体であるから「相い拄う」のである。『法華経』の「化一切衆生、皆令入仏道」一切衆生を化して、皆な仏道に入らしむの「化」と同じ意である。


釈尊が衆生を教化されると心得るときに、この「化」は衆生と釈尊が一体である「化」であるから、「化一切衆生、皆令入仏道」と言われるのである。これこそ釈尊の「我本誓願を立つ」のご本意が現れるのである。


〔聞書私訳〕

/「箭鋒相拄」とは、物が会い合うことにも使う。

また合わないことにも使う。これは「相い拄う」というのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

知るべきである、聴く者も説く者と同様に有り難く、勝劣はないのである。

(しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。)

〔『法華』を聴く者はやはり法華人だ。〕


地に立って聴くのは最も尊い諸仏であるといっても、

なおかつ地に立って法を聴くことがある、


地に立って法を聴くのは三世の諸仏であるからである。

(立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、

立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。)


諸仏は、悟りを得た者であり、修行中の聴法を言うのではない、

すでに三世の諸仏と言われるからである。

(諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。)


知るべきである、

三世の諸仏は火焔(たった今)の説法を地に立って聴くから諸仏(たった今にいる人)なのである。

(しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり。)


説くことと聴くことは、同じく衆生を導く儀式であり、

迷いながら行くことができるものではない。

(一道の化儀、たどるべきにあらず。)


迷いながら行こうとしても、弓の名手が相対して射つとお互いの箭の先が

ぴったり合うように決して別に行くところはないのである。

(たどらんとするに、箭鋒相拄せり。)

〔説聴一如で説き抜き聴き抜きというのを箭鋒相拄と言うのである。〕



                              合掌


 追伸:悟りを開いた禅僧の提唱の動画です。                             

「たった今」現成公案:諸法の仏法なる時節

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