〔『正法眼蔵』原文〕
しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。
立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、
立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。
諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、
すでに三世諸仏とあるがゆゑに。
しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり。
一道の化儀ケギ、たどるべきにあらず。たどらんとするに、
箭鋒相拄センボウソウシュせり。
〔抄私訳〕
「立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、
立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。」とある。
「最尊なる諸仏」は「聴法」するという義はないと、一般には言う。この「諸仏」と「聴法」のすがたは以前にすでに述べた。「火焔」と「三世諸仏聴法」の間柄は、しばらくの間も別々にすべき道理はなく、ただ同じものである。同じものの上で談じるところであるから、「三世諸仏聴法」するとしばらく談じられるのである。
「火焔」も「聴法」し、「転法輪」も「聴法」し、「聴法」も「聴法」するのである。
「諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり」とある。
文の通りである。確かに「諸仏」は「果上」(悟りの上)と心得、「聴法」は「因中」(修行中)と分けるが、因果に関わらないから、「三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり」とあるのである。
「一道の化儀ケギ、たどるべきにあらず。たどらんとするに、箭鋒相拄せり」とある。
「化儀」(衆生を教化し導く方法)という言葉は、確かに教化されるどんなものにも具わっている機縁(機根と因縁)を置いて「化」(教化)として使うのであるが、今の「化」は、「火焔」と「三世諸仏」の間柄を「箭鋒相拄せり」(やじりとやじりが空中で互いに支え合った)と言うのである。互いに支え合っている力量である。
それと言うのは、「火焔」と「諸仏」が一体であるから「相い拄う」のである。『法華経』の「化一切衆生、皆令入仏道」(一切衆生を化して、皆な仏道に入らしむ)の「化」と同じ意である。
釈尊が衆生を教化されると心得るときに、この「化」は衆生と釈尊が一体である「化」であるから、「化一切衆生、皆令入仏道」と言われるのである。これこそ釈尊の「我本誓願を立つ」のご本意が現れるのである。
〔聞書私訳〕
/「箭鋒相拄」とは、物が会い合うことにも使う。
また合わないことにも使う。これは「相い拄う」というのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
知るべきである、聴く者も説く者と同様に有り難く、勝劣はないのである。
(しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。)
〔『法華』を聴く者はやはり法華人だ。〕
地に立って聴くのは最も尊い諸仏であるといっても、
なおかつ地に立って法を聴くことがある、
地に立って法を聴くのは三世の諸仏であるからである。
(立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、
立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。)
諸仏は、悟りを得た者であり、修行中の聴法を言うのではない、
すでに三世の諸仏と言われるからである。
(諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。)
知るべきである、
三世の諸仏は火焔(たった今)の説法を地に立って聴くから諸仏(たった今にいる人)なのである。
(しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり。)
説くことと聴くことは、同じく衆生を導く儀式であり、
迷いながら行くことができるものではない。
(一道の化儀、たどるべきにあらず。)
迷いながら行こうとしても、弓の名手が相対して射つとお互いの箭の先が
ぴったり合うように決して別に行くところはないのである。
(たどらんとするに、箭鋒相拄せり。)
〔説聴一如で説き抜き聴き抜きというのを箭鋒相拄と言うのである。〕
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