〔聞書私訳〕
/「行履アンリなれば、浄土・天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏アイリの動指なり。」とある。
「鞋裏の動指」とは、「大悟」「大迷」「天上」「兜率」は、皆「行仏」の「動指」であり、「鞋裏」は「行仏」に当たるのである。「行仏」の「鞋裏」と言うから、「動指」は、「浄土」「天堂」「大悟」「大迷」などという言葉に当たるのである。
又、「動指」とは、「行仏の威儀」或いは面目・眼晴ガンゼイなどというようなことである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
知るべきである、安楽土・兜率天とは、
浄土・天堂(兜率天宮)どちらも輪廻することと同じである。
(しるべし、安楽・兜率トソツといふは、浄土・天堂ともに輪廻リンネすることの同般なるとなり。)
〔輪廻といっても迷いではなく、天上・地獄を一目に見て自由に往来する行仏の活三昧を言うのである。〕
こちらが行仏の行住坐臥であれば、
浄土・天堂も同じく行仏の行住坐臥である。
(行履アンリなれば、浄土・天堂おなじく行履なり。)
こちらが悟っていれば浄土・天堂も同じく悟っており、
こちらが迷っていれば浄土・天堂も同じく迷っているのである。
(大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。)
これは、しばらく行仏という草鞋ワラジの中で
指を動かすようなことである。
(これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。)
ある時は一発の放屁の音であり、放屎の香である。
(あるときは一道の放屁声ホウヒショウなり、放屎香なり。)
〔行仏の時、一切の音声はみな説法であり、
一切の香りはみな解脱の香りである。〕
鼻があればこの解脱の香りを嗅ぐことができ、
耳・身・所作があればこの説法を聴くことができるのである。
(鼻孔あるは臭得す、耳処・身処・行履処あるに聴取するなり。)
又、仏道の皮肉骨髄(心髄)を我れに得る時がある、我れが行仏を行じ得るのであるから、決して他から得るのではないのである。
(又、得吾皮肉骨髄するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり。)
〔教は仏の教でも行は我れにあるから、仏の威儀に従うと直きに我れが行仏の威儀となり、その時自己がすなわち仏である。〕
合掌
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