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正6-17-2『第六行仏威儀』第十七段②〔凡夫の有念と諸仏の有念とは、はるかに異なっている〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 いま凡夫の活計カッケイする有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、

ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承ソウジョウせるところにあらず。


凡夫の有念と諸仏の有念と、はるかにことなり、

比擬することなかれ。


凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証すると、

天地懸隔ケンカクなり、比論の所及ショギュウにあらず。


十聖三賢の活計、なほ諸仏の道におよばず、

いたずらなる算砂サンサの凡夫、いかでかはかることあらむ。


しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、

諸仏の境界キョウガイとおもへるやからおほし。



〔抄私訳〕

「行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、無覚にあらず、有覚にあらずといふ、すなはちこの道理なり。いま凡夫の活計する有念無念、有覚無覚等、ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承せるところにあらず。凡夫の有念と諸仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証すると、天地懸隔なり、比論の所及にあらず。十聖三賢の活計、なほ諸仏の道におよばず、いたずらなる算砂の凡夫、いかでかはかることあらむ。しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、諸仏の境界とおもへるやからおほし。」とある。


これは、凡夫や外道の邪見をはたらかして、これが仏法であると思っている人が多いが、今の「行仏威儀」(今の様子を生きる行仏という名の仏の必ずその通りある身心の様子)の道理に背いていることを解釈されるのである。文の通りである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

凡夫が考える有念(対象を観察する)無念(想念を離れ何も思わない)、有覚(覚知する働きがある)無覚(覚知する働きがない)始覚(始めて得る覚り)本覚(本来具わっている覚り)等は、みな凡夫の考えであり、仏から仏へと受け継がれてきたものではない。

(いま凡夫の活計する有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、

ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承せるところにあらず。)


凡夫の有念と諸仏の有念とは、はるかに異なっている。

比べてなぞらえることをしてはならない。

(凡夫の有念と諸仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。)


凡夫が本覚と考えるのと、諸仏が本覚と証明するのとでは、

天地ほどにかけ離れており、比べて論ずることはできない。

(凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証すると、

天地懸隔なり、比論の所及にあらず。)


修行段階の上位にある菩薩が考えても、諸仏の言うことを理解できないのに、無益に字句の解釈に明け暮れる凡夫が、どうして理解することなどできよう。

(十聖三賢の活計、なほ諸仏の道におよばず、いたずらなる算砂の凡夫、

いかでかはかることあらむ。)


それなのに、取るに足りない凡夫や外道(道を外れた者)の本劫本見、末劫末見(過去世において常見を起し、未来世において断見を起す)の邪見をいだいて、それを諸仏の境界と思っている連中が多い。

(しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、

諸仏の境界とおもへるやからおほし。)



                         合掌


                         

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