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正6-8『第六行仏威儀』第八段〔一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも〕

〔『正法眼蔵』原文〕

一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、


行仏の容止動静ヨウシドウジョウを量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。


過量の行履アンリなるがゆえに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。



〔抄私訳〕

前の「心量」の言葉に一を加えて「一心量」と置き、前の「仏量」の前に「無量」の言葉を付けるのは、しばらく一多に拘らない意である。「一心量」と「無量仏量」は、相違するものではない。


例えば、「一心量は無量仏量を包含す」ともとは、「一心量」「無量仏量」といっても、「行仏の容止動静を量ぜんと擬するには」(行仏の立ち居振舞いを量ろうとするのには)、この「行仏威儀」〈必ずきちっとこの通りある身心の様子を行じる行仏という名の真実のありようの姿が「過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、即不中」〈行仏の量の面目であり、行仏の量の身心の活動であるから、何と表現しても中アタらないのである〉という意味合いである。


結局は、「一心量」も「無量仏量」も皆同じ意味合いであり、「行仏の威儀」行仏という名の真実のありようが必ずきちっとこの通りある身心の様子〉に背かないが、「行仏の威儀」と言う時は、また交わる言葉もなくて「行仏の威儀」である。これによって「行仏」を量ろうという言葉はひとまずは凡夫の考え方と同じである。


すでに「威儀」(必ずきちっとこの通りある身心の様子)の姿が「過量の面目あり、過量の行履なるがゆゑに」なのであるから、「無量仏量」を用いて「行仏威儀」を量ろうとしても、あたらないのであると心得るべきである。そうかといって、この「一心量」「無量仏量」が、別のもので嫌われるべきものではないが、「行仏威儀」が一切のものにこだわらない所を一筋あげられるのである。


「包含」の言葉は、袋に物を入れているように心得てはならない。只、「一心量」と「無量仏量」の区別がない所を「包含」と心得るべきである。だから、「使不得なり、量不及なり」と言われるのである。誰がいて何を使うというのか、どのように量るというのか。だから「不及」と使うのである。言うならば、「行仏威儀」が「行仏威儀」を使い、「行仏威儀」を及不及(及ぶ及ばない)とも言うのである。


だから、ありふれた言葉も、凡夫の考えとは異なり、「しばらく、行仏威儀に一究あり」と言って、また「行仏」の姿をあらわすのである。


〔聞書私訳〕

/「過量の面目あり」とは、「過量」という言葉に、二つの意味がある。例えば、長さ一尺の物を本として、長さが一尺一寸も二寸もあれば「過」という意味もあり、これは世間で言う「過」である。今はまったく量を置かないから「過量」と使う。尽界が全量の意であると言うのである。「過量」はこれであり、「行仏」の量である。


/「行仏の威儀に一究あり」とは、「即仏即自と恁麼来せるに、吾亦如是・汝亦如是の威儀なれば」、仏がそのままみずからであるから「一究」というのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

一心の量がたとえ無量の仏の量を包含していると徹見したとしても、(一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、)


この行仏の立ち居振舞いを量ろうとするのには、もともと行仏の面目がある。

(行仏の容止動静を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。)


行仏の身心の活動であるから、何と表現しても中アタらないのであり、使うことができないのであり、量ることができないのである。

(過量の行履アンリなるがゆえに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。)

〔行仏はただ行ずるばかりである。〕


しばらく行仏威儀を究め尽くす法がある。

(しばらく行仏威儀に一究あり。)



                          合掌



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