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正6-15『第六行仏威儀』第十五段〔人間界の仏、天上界の仏、仏界の仏もある〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 あるひはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、

さらに余方余道には出現せずとおもへり。


いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。


これは人仏の唯我独尊の道得なり。


さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。


諸仏は唯人間のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥コンノウにいらざるなり。



〔抄私訳〕

天上界は、安楽なことが多く永遠の楽しみのみに誇るから、仏道を修行しない。三悪道(地獄界・餓鬼界・修羅界)は、その苦が忍び難いから、また仏道修行に至らない。人間界だけに諸仏は出現されると思っている。誤って、人間界の内でも南州が殊に仏道修行の所であり、北州などには概して仏は出現されないなどと法相宗ホッソウシュウでは説く。ただ、諸仏の出世(この世に出現される)の本懐には、この義は当たらない。


仏の出世は、尽十方界に隔てがあるはずがない。ただ人間道だけに仏が出世されるというのは、しばらく「人仏の唯我独尊の道得なり」と言うのである。本当に、天上界の仏もある、仏界の仏もある。決して人間界のみに限らないのである。落ち着く所は仏界の仏である。これらの道理を知らないのは、仏祖の堂の奥に入っていないと嫌がられるのである。


〔聞書私訳〕

/「人仏の唯我独尊の道得なり」とは、「大地と有情と同時に成道せり」(大地も生物もすべてが仏陀の成道と同時に仏道を成就した)ということで、天上界にも仏があり、仏界中にも仏があるというのはこの意味合いである。


「天上天下唯我独尊」(天の上も下も唯我れ独り尊し)とは、天上界・人間界もなく、只「独尊」なのである。「唯我独尊」と言って、天上界でも教化キョウケし人間界でも教化する。


天上天下と言えば、天上界と人間界を合わせてこれらよりも勝れて「独尊」と言われるのではない。只、天上界でも「独尊」、人間界でも「独尊」である。

その世界の人に対して尊というのではない、人に対して尊であるなら、三界(衆生が流転する三つの迷いの世界)の考え方を離れる事はできないのである。

「三界唯心」〈三界はただ心だけである〉の道理を得たなら、「天上唯天」(天上界はただ天だけである)とも、「人間明心」(人間界はさとりの心だけである)とも言うことができるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

ある者は言う、「ただ人間界にだけ諸仏は出世するが、

決してそのほかの六界には出現しないと思っている」。

(あるひはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。)


言うようであるなら、仏(自己の真相をはっきり自覚された方)がおられる所は、

みな人間界であるのか。

(いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。)


これは人間界の仏だけ独り尊いと言っていることになる。

(これは人仏の唯我独尊の道得なり。)


他にも天上界の仏も、仏界の仏もあるのである。

(さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。)


諸仏はただ人間界だけに出現すると言うのは、

仏祖の奥の間に入っていないのである。

(諸仏は唯人間のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥にいらざるなり。)



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