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正6-13-2『第六行仏威儀』第十三段②〔『正法眼蔵』私訳〕〔生はあって死がない者があるか〕

  しばらくこの生死というものをよく参学すべきである。 この四生の諸々の生類の中で、生はあって死がない者があろうか。 (しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。) あるいは、死だけ単伝して、生を単伝しない者があろうか。 (また、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。) 生ばかりで死がない、死ばかりで生がない生類が有るか無いか、 必ず参学すべきである。 (単生単死の類の有無、かならず参学すべし。) わずかに無生の語句を聞いて、それ以上明らかにすることなく、 身心の参学をそのままにしておくような者がいる。 (わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、 身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。) これは愚鈍のはなはだしい者である。 (これ愚鈍のはなはだしきなり。) 信行 (教を信じて行ずること) は漸々に、法行 (法に依って行ずること) は 頓に悟るという論にも及ばない畜生のたぐいと言うべきである。 (信法頓漸 シンポウトンゼン の論にもおよばざる畜類といひぬべし。) なぜかというと、たとえ無生と聞くといっても、 これが言おうとしているところは何であるのか。 (ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、 この道得の意旨作麼生 ソモサン なるべし。) 更に、無の仏・無の道・無の心ということか、無の無生ということか、無の法界・無の法性ということか、無の死ということかと功夫せず、 (さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、 無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、) ただ牛馬が水草のことを念 オモ い続けているように、 むなしく無生ばかりを念い続けているからである。 (いたづらに水草但念なるがゆえなり。)                        合掌                                                    ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正6-13-1『第六行仏威儀』第十三段① 〔生はあって死がない者があるか。死だけを伝え生を伝えない者があるか。〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、 生はありて死なきものあるべしや。 又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。 単生単死の類の有無、かならず参学すべし。 わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、 身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。 これ愚鈍のはなはだしきなり。 信法頓漸 シンポウトンゼン の論にもおよばざる畜類といひぬべし。 ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、 この道得の意旨作麼生 ソモサン なるべし。 さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、 無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、 いたづらに水草但念 タンネン なるがゆゑなり。 〔抄私訳〕 これは、生ばかりあって死がない者、あるいは死のみ単伝 (このものをこの通り伝える) して生を単伝しない者はあるか、とは、全て生と取る時は生はあり死はない、全て死と取る時は、死のみ単伝して生を単伝しない道理である。だから、「単生単死の類の有無、必ず参学すべし」と言うのである。 「無生」の句を聞くと、ただ生まれることがないとばかり心得て、「工夫をさしおく」事をこのようにいましめられるのである。信行 (他の教を信じて行ずること) は漸々 ゼンゼン に、法行 (自ら法に依って行ずること) は頓 トン に悟るといって「頓漸」に当てることを引き出されるのである。 「たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏・無道・無心・無滅なるべし」とは、仏を無と使う、或いは道・心・滅等を皆無と使うのである。だからこのように説けば、一般に「無生」の言葉に迷うことはないのである。解脱の無、独立の無である。 無々の無というのは解脱の無であり、仏性の上で有無を説くようなことである。 これらの道理を「功夫せず、いたづらに水草但念なるがゆゑなり」 と嫌がられるのである。経に、「但念水草、余無所知、謗 斯 経故、獲罪如是」 (ただ水や草を念じ、余は知る所無く、 斯 の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し) という意である。 〔聞書私訳〕 /「生はありて死なきものあるべしや」とは、生が死とならないので、生はあって死はないとも言えるのである。死が生にならないので、死はあって生はないとも言える。これは、「生也全機現」 (生も全分の働きの現れ

正6-12-2『第六行仏威儀』第十二段②〔では、死はいくつあるか〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。 四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、 又、五死六死、千死万死あるべきか。 この道理わずかに疑著せんも、参学の分なり。 〔抄私訳〕 「四生」は普通に言うところであるが、「四死」という事は未だ聞いたことがない。もっとも、「四生」があるなら、どうして「四死五死」、或いは「千死万死」がないことがあろうか。全機の死の道理は決して生と違うことがないから、この道理を「参学の分なり」と、しばらく受けられるのである。 〔聞書私訳〕 /「胎卵湿化生」の外に「胎卵湿化生」とは、尽十方界の胎生・尽十方界の卵生・尽十方界の湿生・尽十方界の化生とこのようである。 教家では、「胎生」「化生」の者は、修行して成仏すると許すが、直ちに仏とは言わない。この宗門では、「胎生」すれば「胎生」の仏、「化生」すれば「化生」の仏と説くのである。 「卵生」「湿生」等は、業力 (業因の力) が少ないから人となり難い。生々を経て、善業を増やしてついに成仏できるというのである。 この言葉は、御『聞書』 (師の詮慧の) に書き載せられているからこれを載せるが、いかにも不審である。《書き入れ:もっとも、この言葉はただ教家で説く一般の道理を載せられたのであり、仏道の上で説くところではない。いかにもこの部分は間違いである。》従って省略した。 「卵生」なら「卵生」の仏、「湿生」なら「湿生」の仏と説くべきである。従って四生の内、「卵生」「湿生」の二つが業力を隔て、生々を経てついに成仏するという言葉は大変違っていると思われる。もっとも、これはひとえに経豪 キョウゴウ(抄の筆者) の愚かな考えである。《傍注:そうであるが、私 (経豪) の考えも違わない。》目に見えない働きと目に見える働きについて、恐る恐る謹んで申し上げるが、後にこれを注釈する。 /「四死」「三死二死」「五死六死」「千死万死」の事は、我々が五六などと言う数ではない。無縫塔 (塔身が卵形の墓) を七尺八尺と言い、首の長いこと二寸などと用いるようなことである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 既に四生はみな承知しているところである、では、死はいくつあるか。 (すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。) 四生には四死もあろう、また、三死二死もあろう、 また、五死六死もあろう、千死万死もあろ

正6-12-1『第六行仏威儀』第十二段①〔胎卵湿化の四生のほかに四生がある〕

〔『正法眼蔵』原文〕  仏道を説著 セッヂャク するに、胎生 タイショウ ・化生 ケショウ 等は仏道の行履 アンリ なりといへども、いまだ湿生 シッショウ ・卵生 ランショウ 等を道取せず。 いはんやこの胎卵湿化生 タイランシツケショウ のほかになほ生あること、 夢也未見在 ムヤミケンザイ なり。 いかにいはんや胎卵湿化生のほかに、胎卵湿化生あることを見聞覚知せんや。 いま仏々祖々の大道には、胎湿卵化生のほかの胎湿卵化あること、 不曾蔵に正伝せり、親密に正伝せり。 この道得、きかずならはず、しらずあきらめざらんは、なにの党類なりとかせん。 〔抄私訳〕 「胎生」「化生」は一般にこれを言う。仏も摩耶夫人の胎内より出られた証拠は 明かである。「湿生」「卵生」等は、仏道でまだ言わない。 「いはんやこの胎卵湿化生のほかになほ生あること」とは、 全機 (全分の働き) の生死の事である。 また、「胎卵湿化生のほかに、胎卵湿化生あることを見聞覚知せんや」とは、 全機の生を「胎卵湿化」と説く意味合いを言うのである。 この道理を「不曽蔵に正伝せり、親密に正伝せり」と解釈されるのである。 アムラ女は木の股より生まれた。また、頂生王 チョウショウオウ と言った王は、父の頭頂にできた腫れ物がふくれて生まれた輪王 (武力によらず法によって世界を治める帝王) である。これらは皆「湿生」か。 〔聞書私訳〕 /「胎生」「化生」には仏を説き、仏道には「湿生」「卵生」を許さない。 業力が深いので仏道に遠いというのは教家の意である。 /四生のほかの生とは/仏の口より生まれる生/法の化より生まれる生/ また心に生じる種々の法より生まれる生がある。 /或いは、法華を父とし、般若を母とするという生がある。 /或いは、自身を父とし、自身を母とするという生がある。 /或いは、汝は吾れの皮肉骨髄を得たという生もある。 /或いは、尽十方界真実人体 (全十方世界はこの真実の人体である) の生もある。 〔『正法眼蔵』私訳〕 仏道を説くのに、胎生 (母胎から生まれるもの) ・化生 (縁に依って忽然と生まれるもの) などは仏道の通説であるが、 まだ湿生 (湿気から生まれるもの) ・卵生 (卵から生まれるもの) 等を言及することはない。 (仏道を説著 するに、胎生 ・化生 等は仏道の行履 なりといへども、いまだ湿生 ・卵生

正6-11-2『第六行仏威儀』第十一段②〔大きなものでもなく小さなものでもないことを疑うかもしれないが、これが行仏威儀である〕

  〔『正法眼蔵』私訳〕 大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、 威儀行仏なり。 仏々祖々の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、 ともに不曽蔵 フゾウゾウ を徧界 ヘンカイ と参学すべし。 徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。 これ行仏一中の威儀なり。 大の有にあらざる、小の有にあらざる、 疑著 ギヂャク ににたりといへども、威儀行仏なり。 〔抄私訳〕 「徧界不曽蔵」 (徧界 ヘンカイ は曽 カツ て蔵 カク さず:世界中どこにも隠れるところがなく、真実は常に顯れている) は普通の言葉である。これは、やはり物を置いて隠れないと言う意味合いも出てくるにちがいない。「不曽蔵を徧界と参学」するのである。例えば、発菩提心を菩提心発と言うようなことである。 「徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。これ行仏一中の威儀なり。」とある。これは前に言ったように、いずれ「徧界不曽蔵」という言葉について邪見が出てくるかもしれないが、これも捨てるべき言葉ではなく、しばらくの義である。これらは皆「行仏一中の威儀」 である。 〔聞書私訳〕 /「大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、威儀行仏なり」という。「あらざる」「あらざる」とは、「極大」「極小」を指すのである。必ずしも、大の姿が有ると心得てはならない。これは「行仏威儀」である。 仏法の「有」であるなら、「大に非ず小に非ず」と言うのを「行仏威儀」と言うことができる。一寸より一尺は大きいと言うのは世間の法である。仏法では「大」を「小」と使い、「小」を「大」と使うのではなく、法界に対して「大小」を立てるのである。 須弥山 シュミセン(世界の中心にそびえる巨大な山) が芥子粒の中に入るのは、人知では測り知れない不思議な変化 ヘンゲ ではないのである。 /「徧界不曽蔵」「不曽蔵徧界」という事。「徧界不曽蔵」は普通の言葉である。「不曽蔵を徧界」と言う時は、一々の物の上で言う意味合いであり、「徧界不曽蔵」とは、一々の物を置かないで言うのである。例えば、「諸法の仏法なる時節、まどひありさとりあり」と言うような時を、「不曽蔵を徧界」と言い、「万法われにあらざる時節」が「徧界不曽蔵」に当たる。 「徧界不曽蔵」を、只あまねくひろく「不曽蔵」とのみ心得てはならない。仏道の「不曽蔵」は小の「不曽蔵」、一の「不曽蔵」