スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2024の投稿を表示しています

正6-16-1『第六行仏威儀』第十六段①正釈迦牟尼仏は、兜率天に往かれ、兜率天を教化して今もそこにおられる

〔『正法眼蔵』原文〕  祖宗いはく、 「釈迦牟尼仏 シャカムニブツ 、自従迦葉仏 ジジュウカショウブツ 所伝正法、 往兜率天 オウトソツテン 、化兜率陀天 ケトソツダテン 、于今有在 ウコンウザイ 《釈迦牟尼仏、迦葉仏の所 ミモト にして正法を伝へてより、 兜率天に往 ユ いて、兜率陀天を化 ケ して今に有在 マシマ す》」。 まことにしるべし、 人間の釈迦は、このとき滅度現の化 ケ をしけりといへども、 上天の釈迦は、「于今有在 ウコンウザイ 」にして化天するものなり。 学人 ガクニン しるべし、人間の釈迦の千変万化の道著 ドウヂャク あり行取 ギョウシュ あり説著 セッヂャク あるは、人間一隅の放光現瑞 ズイ なり。 おろかに上天の釈迦、その化さらに千品 ボン 万門ならん、 しらざるべからず。 〔抄私訳〕 このことは本当に疑わしいことである。その理由は、「釈迦」は既に入滅 (涅槃に入る) され、「兜率天 トソツテン 」には五十六億七千万年後に、弥勒 ミロク 菩薩が出現されると言うのに、入滅した「釈迦」が「兜率天」に往 イ ってその天上界で教化され「今に有在す」 (今もそこにおられる) というのは、本当に疑わしいことである。 もっとも、今の釈尊・迦葉・弥勒等の皮肉骨髄 (全身心) が通じる所は決して隔たりがないから、「上天の釈迦」とは弥勒を指すのである。 「学人 しるべし、人間の釈迦の千変万化の道著 あり行取 あり説著 あるは、人間一隅の放光現瑞 なり。おろかに上天の釈迦、その化さらに千品 万門ならん、しらざるべからず。」とある。 「人間の釈迦」とは、「滅度現」 (涅槃が現れる) の「釈迦」を指すのである。確かに、釈迦一代の言葉・説法・行などは、皆「人間一隅の放光現瑞」 (人間界の一隅で光明を放ち奇瑞を現わすこと) であるが、天上界に上がった「釈迦」の教化はどれほどであろうか。「千品 ホ 万門」 (幾千幾万の多様な教え) があると心得るべきである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 歴代の祖師が言う、 「釈迦牟尼仏は迦葉仏のところで正法を伝えられてから、兜率天に往かれ、兜率天を教化して今もそこにおられる」と。 (祖宗いはく、「釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天、化兜率陀天、于今有在《釈迦牟尼仏、迦葉仏の所にして正法を伝へてより、兜率天に往いて...

正6-15『第六行仏威儀』第十五段〔人間界の仏、天上界の仏、仏界の仏もある〕

〔『正法眼蔵』原文〕  あるひはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、 さらに余方余道には出現せずとおもへり。 いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。 これは人仏の唯我独尊の道得なり。 さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。 諸仏は唯人間のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥 コンノウ にいらざるなり。 〔抄私訳〕 天上界は、安楽なことが多く永遠の楽しみのみに誇るから、仏道を修行しない。三悪道 (地獄界・餓鬼界・修羅界) は、その苦が忍び難いから、また仏道修行に至らない。人間界だけに諸仏は出現されると思っている。誤って、人間界の内でも南州が殊に仏道修行の所であり、北州などには概して仏は出現されないなどと法相宗 ホッソウシュウ では説く。ただ、諸仏の出世 (この世に出現される) の本懐には、この義は当たらない。 仏の出世は、尽十方界に隔てがあるはずがない。ただ人間道だけに仏が出世されるというのは、しばらく「人仏の唯我独尊の道得なり」と言うのである。本当に、天上界の仏もある、仏界の仏もある。決して人間界のみに限らないのである。落ち着く所は仏界の仏である。これらの道理を知らないのは、仏祖の堂の 奥に入っていないと嫌がられるのである。 〔聞書私訳〕 /「人仏の唯我独尊の道得なり」とは、「大地と有情と同時に成道せり」 (大地も生物もすべてが仏陀の成道と同時に仏道を成就した) ということで、天上界にも仏があり、仏界中にも仏があるというのはこの意味合いである。 「天上天下唯我独尊」 (天の上も下も唯我れ独り尊し) とは、天上界・人間界もなく、只「独尊」なのである。「唯我独尊」と言って、天上界でも教化 キョウケ し人間界でも教化する。 天上天下と言えば、天上界と人間界を合わせてこれらよりも勝れて「独尊」と言われるのではない。只、天上界でも「独尊」、人間界でも「独尊」である。 その世界の人に対して尊というのではない、人に対して尊であるなら、 三界 (衆生が流転する三つの迷いの世界) の考え方を離れる事はできないのである。 「三界唯心」 〈三界はただ心だけである〉 の道理を得たなら、「天上唯天」 (天上界はただ天だけである) とも、「人間明心」 (人間界はさとりの心だけである) とも言うことができるのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ある者は言う、「ただ人間界にだけ諸仏は出世す...

正6-14『第六行仏威儀』第十四段〔生死は仏道のその時その時の在りようである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  しるべし、生死 ショウジ は仏道の行履 アンリ なり、生死は仏家 ブッケ の調度なり。 使也要使 シヤヨウシ なり、明也明得 メイヤメイトク なり。 ゆえに諸仏は、この通塞 ツウソク に明々なり、この要使に得々なり。 この生死の際にくらからん、たれかなんじをなんぢといはん。 たれかなんぢを了生達死の漢といはん。 生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず、 生死を生死なりと信受すべからず、不会 フエ すべからず、不知すべからず。 〔抄私訳〕 文の通り心得るべきである。ただ、「生死」は流転 (迷いの世界をさすらうこと) の「調度」であり、ここで死んでかしこに生まれるとばかり心得る事は、甚だ愚かな事である。もっぱら生死を「仏家の調度」と心得るべきである。 全機 (全分の働き) の生死の上に沈むという道理とは、どういうことか。つまるところ、「しずむ」という言葉も、「あり」と使う言葉も、或いは「信受」も「不会」も、全機の「生死」の上で使う言葉であると心得るべきである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 知らなければならない、生死は仏道 (自己の真相を自覚する道) のその時その時の在りようであり、 生死は仏家 (自己の真相を生きる者) の調度品 (手回りの諸道具) なのである。 (しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり。) この生死は使おうとすれば必要なだけ使え、 明らかにしようとすれば明らかにすることができるのである。 (使也要使なり、明也明得なり。) だから諸仏 (自己の真相を自覚された方々) は、この生死の真相を明らかにされておられ、この生死を必要なだけ自由自在に使われるのである。 (ゆえに諸仏は、この通塞に明々なり、この要使に得々なり。) もしこの生死の究極の理に暗いようでは、誰が汝をその人と言うであろう。 (この生死の際にくらからむ、たれかなんじをなんじといはん。) 誰が汝を生死をはっきりと分かった人と言うであろう。 (たれかなんじを了生達死の漢といはむ。) 生死に沈んでいると聞いてはならない、 (生死にしづめりときくべからず、) 生死に浮沈していると思ってはならない、 (生死にありとしるべからず、) 生死を生死だと信じ込んではならない。 (生死を生死なりと信受すべからず。) 〔菩薩は生死を涅槃と見る。〕 生死を...

正6-13-2『第六行仏威儀』第十三段②〔『正法眼蔵』私訳〕〔生はあって死がない者があるか〕

  しばらくこの生死というものをよく参学すべきである。 この四生の諸々の生類の中で、生はあって死がない者があろうか。 (しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。) あるいは、死だけ単伝して、生を単伝しない者があろうか。 (また、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。) 生ばかりで死がない、死ばかりで生がない生類が有るか無いか、 必ず参学すべきである。 (単生単死の類の有無、かならず参学すべし。) わずかに無生の語句を聞いて、それ以上明らかにすることなく、 身心の参学をそのままにしておくような者がいる。 (わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、 身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。) これは愚鈍のはなはだしい者である。 (これ愚鈍のはなはだしきなり。) 信行 (教を信じて行ずること) は漸々に、法行 (法に依って行ずること) は 頓に悟るという論にも及ばない畜生のたぐいと言うべきである。 (信法頓漸 シンポウトンゼン の論にもおよばざる畜類といひぬべし。) なぜかというと、たとえ無生と聞くといっても、 これが言おうとしているところは何であるのか。 (ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、 この道得の意旨作麼生 ソモサン なるべし。) 更に、無の仏・無の道・無の心ということか、無の無生ということか、無の法界・無の法性ということか、無の死ということかと功夫せず、 (さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、 無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、) ただ牛馬が水草のことを念 オモ い続けているように、 むなしく無生ばかりを念い続けているからである。 (いたづらに水草但念なるがゆえなり。)                        合掌                                                    ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村