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正6-14『第六行仏威儀』第十四段〔生死は仏道のその時その時の在りようである〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しるべし、生死ショウジは仏道の行履アンリなり、生死は仏家ブッケの調度なり。


使也要使シヤヨウシなり、明也明得メイヤメイトクなり。


ゆえに諸仏は、この通塞ツウソクに明々なり、この要使に得々なり。


この生死の際にくらからん、たれかなんじをなんぢといはん。


たれかなんぢを了生達死の漢といはん。


生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず、

生死を生死なりと信受すべからず、不会フエすべからず、不知すべからず。



〔抄私訳〕

文の通り心得るべきである。ただ、「生死」は流転(迷いの世界をさすらうこと)の「調度」であり、ここで死んでかしこに生まれるとばかり心得る事は、甚だ愚かな事である。もっぱら生死を「仏家の調度」と心得るべきである。


全機(全分の働き)の生死の上に沈むという道理とは、どういうことか。つまるところ、「しずむ」という言葉も、「あり」と使う言葉も、或いは「信受」も「不会」も、全機の「生死」の上で使う言葉であると心得るべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知らなければならない、生死は仏道(自己の真相を自覚する道)のその時その時の在りようであり、

生死は仏家(自己の真相を生きる者)の調度品(手回りの諸道具)なのである。

(しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり。)


この生死は使おうとすれば必要なだけ使え、

明らかにしようとすれば明らかにすることができるのである。

(使也要使なり、明也明得なり。)


だから諸仏(自己の真相を自覚された方々)は、この生死の真相を明らかにされておられ、この生死を必要なだけ自由自在に使われるのである。

(ゆえに諸仏は、この通塞に明々なり、この要使に得々なり。)


もしこの生死の究極の理に暗いようでは、誰が汝をその人と言うであろう。

(この生死の際にくらからむ、たれかなんじをなんじといはん。)


誰が汝を生死をはっきりと分かった人と言うであろう。

(たれかなんじを了生達死の漢といはむ。)


生死に沈んでいると聞いてはならない、

(生死にしづめりときくべからず、)


生死に浮沈していると思ってはならない、

(生死にありとしるべからず、)


生死を生死だと信じ込んではならない。

(生死を生死なりと信受すべからず。)

〔菩薩は生死を涅槃と見る。〕


生死を理解できないもの、知ることのできないものとしてはならない。

(不会すべからず、不知すべからず。)


                          合掌


                         

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