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正5-8『第五即心是仏』第八段〔即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃する仏のことである〕

総選挙で高市候補応援のためしばらく中断していましたが、正法眼蔵に戻ります。

よろしくお願いします。


〔『正法眼蔵』原文〕

しかあればすなはち、即心是仏とは、

発心ホッシン・修行・菩提ボダイ・涅槃ネハンの諸仏なり。


いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。


たとひ一刹那セツナに発心ホッシン修証シュショウするも即心是仏なり、

たとひ一極微ゴクミ中に発心修証するも即心是仏なり、

たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、

たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、

たとひ半挙裏ケンリに発心修証するも即心是仏なり。


しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、

即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。


即心是仏を開演する正師を見ざるなり。



〔抄私訳〕

これは、一般には、「発心・修行・菩提・涅槃」は人が行うことであり、「即心是仏」ということこそが、すみやかな解脱である。長い時間をかけてする修行は決して「即心是仏」ではないと思う所を、このように解釈されるのである。


これは、「発心・修行・菩提・涅槃」を、普通は発心し修行し、修行すれば菩提を得て後、涅槃に入ると思っている時の疑いである。発心も修行も菩提も涅槃も、不染汚の発心、不染汚の修行、不染汚の菩提、不染汚の涅槃と説く時は、この「即心是仏」と少しも違わない。みな解脱の「発心・修行・菩提・涅槃」なのである。


「長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり」とは、文の通りに理解すべきである。


本当に、「即心是仏」の上に、時間の長短、広狭多少の意味はない。もっとも趣旨がある事である。「長劫チョウゴウに修行作仏するは即心是仏にあらずといふ」とは、以前に出た所である。「発心修行」を誤って理解し、「長劫の修行」と名づけ、「即心是仏」をすぐに悟る教えと理解する邪見を、「即心是仏」を知らず、「正師」にあわずと嫌われ、前のように言ったのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるから、即心是仏とは、発心〈今の様子に気付くこと〉・修行〈今の様子のままに居ること・菩提〈なるほど本当に今の様子になっているなという事が頂けるようになること〉・涅槃〈今の様子のままに今の様子を使って生きていくこと〉する諸仏のことである。

(しかあればすなはち、即心是仏とは、発心ホッシン・修行・菩提ボダイ・涅槃ネハンの諸仏なり。)


いまだ発心・修行・菩提・涅槃しないのは、即心是仏ではない。

(いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。)


たとえ一刹那でも発心・修証(悟りと一つである修行)するのも即心是仏である。

(たとひ一刹那セツナに発心ホッシン修証シュショウするも即心是仏なり、)


たとえ一極微中で発心・修証するのも即心是仏である。

(たとひ一極微ゴクミ中に発心修証するも即心是仏なり、)


たとえ限りなく長い時間にわたって発心修証するのも即心是仏である。

(たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、)


たとえ一念中で発心修証するのも即心是仏である。

(たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、)


たとえ握りこぶしを半分作る間に発心修証するのも即心是仏〈今の様子のままに今の様子を使って生きる仏である。

(たとひ半挙裏ケンリに発心修証するも即心是仏なり。)


それなのに、即の字にとらわれて、長い時間をかけて修行して仏になるのは即心是仏ではないと言うのは、即心是仏をまだ見たことがなく、まだ知らず、まだ学んだことがないのである。

(しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。)


即心是仏を自ら行じ説き示すことができる正しい師に逢ったことがないのである。

(即心是仏を開演する正師を見ざるなり。)




                      合掌



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