それに対して国師は言った。「もしそうであれば、あの先尼外道センニゲドウの考えと違わないことになる」。
(師曰く、「若然者、与彼先尼外道、無有差別《若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん》」。)
彼らは言う、「我々のこの身体の中に一つの神性があり、この神性はよく痛い痒いを知り、身体が壊れる時、神性は出て行く。
(彼が云く、「我此身中有一神性、此性能知痛痒、身壊之時、神則出去《我が此の身中に一の神性有り、此の性能く痛痒を知り、身壊する時、神シン則ち出で去る、》)
家が焼かれると、その家の住人が出て行くようなものである。
(如舎被焼舎主出去《舎の焼かるれば、舎主出で去るが如し》。)
家は無常だが、家の住人は常にある。」
(舎即無常、舎主常矣《舎は即ち無常なり、舎主は常なり》。)
明らかにこのようであれば、その邪正を取り上げるほどのものではない、
誰がそれを良しとするだろうか。
(審如此者、邪正莫辦、孰為是乎《審シンすらくは此の如くならば、邪正辦ずるなし、孰イカンが是とせんや》。)
私(国師)がかつて修行のため諸方を歴遊していた頃、
多くこういう風な様子を見てきた。近頃もっとも盛んに流布している。
(吾比遊方、多見此色。斤尤盛矣。《吾れ比ソノカミ遊方ユホウせしに、多く此の色を見き。近チカゴロ尤モットモ盛んなり》。)
三百人、五百人もの修行僧を集め、空の彼方を見て(どこか遠方に思いを馳せて)、
「これが南方の仏法の根本の教えである」と言う。
(聚却三五百衆、目視雲漢云、是南方宗旨《三五百衆を聚却アツメて、目に雲漢を視て云く、是れ南方の宗旨シュウシなり》と)。)
六祖の説法集を取り改ざんし、ありもしない奇譚キタンを付け加え、六祖の貴い真意を削除し、後の修行者を惑わせている。どうして六祖の教えと言えようか。
(把他檀経改換、添糅鄙譚削除聖意、惑乱後徒、豈成言教《他カの檀経ダンキョウを把トって改換して、鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし、聖意を削除して後徒ゴトを惑乱す、豈アニ言教を成らんや》。)
苦々ニガニガしいことだ、吾が宗は滅んでしまった。
(苦哉、吾宗喪矣《苦しい哉カナ、吾が宗ほろびぬ》。)
もし見聞覚知を仏性とすれば、浄名(インドの維摩居士ユイマコジ)はまさに「法は見聞覚知を離れる。もし見聞覚知を行じるならば、それは見聞覚知であり、法を求めるものではない」とは言わないのである。
(若以見聞覚知、是為仏性者、浄名不応云法離見聞覚知、若行見聞覚知、是則見聞覚知非求法也《若し見聞覚知を以てこれを仏性とせば、浄名はまさに「法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と云ふべからず》。)
合掌
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