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正5-3-3『第五即心是仏』第三段③ 南方の知識の教え 〔『正法眼蔵』私訳〕

 

 それに対して国師は言った。「もしそうであれば、あの先尼外道センニゲドウの考えと違わないことになる」。

(師曰く、「若然者、与彼先尼外道、無有差別《若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん》」。)


彼らは言う、「我々のこの身体の中に一つの神性があり、この神性はよく痛い痒いを知り、身体が壊れる時、神性は出て行く。

(彼が云く、「我此身中有一神性、此性能知痛痒、身壊之時、神則出去《我が此の身中に一の神性有り、此の性能く痛痒を知り、身壊する時、神シン則ち出で去る、》)


家が焼かれると、その家の住人が出て行くようなものである。

(如舎被焼舎主出去《舎の焼かるれば、舎主出で去るが如し》。)


家は無常だが、家の住人は常にある。」

(舎即無常、舎主常矣《舎は即ち無常なり、舎主は常なり》。)


明らかにこのようであれば、その邪正を取り上げるほどのものではない、

誰がそれを良しとするだろうか

(審如此者、邪正莫辦、孰為是乎《審シンすらくは此の如くならば、邪正辦ずるなし、孰イカンが是とせんや》。)


(国師)がかつて修行のため諸方を歴遊していた頃、

多くこういう風な様子を見てきた。近頃もっとも盛んに流布している

(吾比遊方、多見此色。斤尤盛矣。《吾れ比ソノカミ遊方ユホウせしに、多く此の色を見き。近チカゴロモットモ盛んなり》。)


三百人、五百人もの修行僧を集め、空の彼方を見てどこか遠方に思いを馳せて)

これが南方の仏法の根本の教えである」と言う

(聚却三五百衆、目視雲漢云、是南方宗旨《三五百衆を聚却アツメて、目に雲漢を視て云く、是れ南方の宗旨シュウシなり》と)。)


六祖の説法集を取り改ざんし、ありもしない奇譚キタンを付け加え、六祖の貴い真意を削除し、後の修行者を惑わせている。どうして六祖の教えと言えようか。

(把他檀経改換、添糅鄙譚削除聖意、惑乱後徒、豈成言教《他の檀経ダンキョウを把って改換して、鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし、聖意を削除して後徒ゴトを惑乱す、豈アニ言教を成らんや》。)


苦々ニガニガしいことだ、吾が宗は滅んでしまった。

(苦哉、吾宗喪矣《苦しい哉カナ、吾が宗ほろびぬ》。)


もし見聞覚知を仏性とすれば、浄名(インドの維摩居士ユイマコジはまさに「法は見聞覚知を離れる。もし見聞覚知を行じるならば、それは見聞覚知であり、法を求めるものではない」とは言わないのである。

(若以見聞覚知、是為仏性者、浄名不応云法離見聞覚知、若行見聞覚知、是則見聞覚知非求法也《若し見聞覚知を以てこれを仏性とせば、浄名はまさに「法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と云ふべからず》。)



                        合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...