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正4-13-2『第四身心学道』 第十三段②〔去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来す:生死去來は、尽十方界をその翼として飛び去り飛び来たる〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来す、尽十方界を三足五足として進歩退歩するなり。


生死を頭尾トウビとして、尽十方界真実人体はよく翻身回脳ホンシンカイノウするなり。



〔抄私訳〕

これも又、別に子細はない。尽十方界の道理は、千変万化する時このような理が現前するのである。


「尽十方界真実人体」〈尽十方界であるこの真実の人体の人は、「生死」を「尾」とし「頭」とし、「飜身回脳する」とは、ただ頭になり尾になり、あれこれと行動する意味合いである。


これも只、生死の際限のない道理である。身をひるがえし脳をめぐらすとは、この「生死」が、内外中間にかかわらず、まったくこの理の及ばない所がない道理を述べるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この身心は広大な世界をどこへでも飛んで行きどこからでも飛んで来る力を持っており、広大な世界をどこへでも自由に歩いていく力を持っているのである。

(去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来す、十方界を三足五足として進歩退歩するなり。)

〔例えば、彼方に眼をやれば山と一緒になり山が見え、夜空に眼をやれば何億光年彼方の星と一緒になり星が見える。この広大な世界を、この身心はここにいながら飛び交う力を持っているのである。そして尊いこの身心が見聞覚知するところに広大な世界が現れるのである〈天上天下唯我独尊〉。〕


今活動している様子〈生死〉を相手にして〈頭とし尾として〉、この身心〈尽十方界真実人体〉は、巧みに身を翻ヒルガエし考えを回メグらし様々に行動するのである。

(生死を頭尾トウビとして、尽十方界真実人体はよく翻身回脳ホンシンカイノウするなり。)



                         合掌


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