〔『正法眼蔵』原文〕
或現此身得度而為説法ワクゲンシシントクドニイセッポウ
《或いは此の身を現じて、得度して説法を為す》なり、
或現他身得度而為説法
《或いは他の身を現じて、得度して説法を為す》なり、
或不現此身得度而為説法
《或いは此の身を現ぜずして、得度して説法を為す》なり、
或不現他身得度而為説法
《或いは他の身を現ぜずして、得度して説法を為す》なり、
乃至不為説法《ないし説法を為さず》なり。
〔抄私訳〕
「或いは此の身を現す」とは、「尽十方界真実人体」〈尽十方世界であるこの真実の身体〉の身である。「或いは他の身を現し得度して説法を為す」とあるのも、「尽十方界真実人体」の他の身である。だから、自他はそれぞれ別でない道理が明らかである。「ないし説法を為さず」と、云々。「真実人体」の人を指して、「説法を為さず」とも言われるのであり、この説法の道理が、説法せずとも説かれるのである。つまるところ、理さえ極まっていれば、「説法を為す」「説法を為さず」とどちらに言われても、少しも繋縛ケバク(心が外界の事物につながれしばられる)されないのである。これを解脱の理とも言い、仏法とも説くのである。
経によって道理を解釈するのは三世諸仏の怨であり、文字モンジの法師(教理ばかり学んで修行が伴わない僧)の見解と取るべきである。経の一字を離れては魔説と同じである、今の仏法〈禅宗〉の方で解すべきである。
言葉のはたらきを、上位の聖人が下位の者に授ける説法と理解してはならない、尽十方界の姿を、説法と取るからである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
〔このような身心の現れる様子を、『法華経』普門品フモンボンの中の句によって次に挙げてあります。〕
或いは尽十方界真実人体〈尽十方世界であるこの真実の身体〉のこの身を現し、
得度〈生死の苦の世界を超えて、涅槃の安楽の世界に渡ること〉して法を説き、
(或いは此の身を現じて、得度して説法を為すなり、)
或いは尽十方界真実人体の他の身を現し、得度して法を説き、
(或いは他の身を現じて、得度して説法を為すなり、)
或いは尽十方界真実人体のこの身を現さないで、得度して法を説くのである。
(或いは此の身を現ぜずして、得度して説法を為すなり、)
或いは尽十方界真実人体の他の身を現さないで、得度して法を説き、
(或いは他の身を現ぜずして、得度して説法を為すなり、)
または法を説かないのである。(ないし説法を為さずなり。)
〔評釈〕
〔難しいように聞こえるかもしれませんが、そのことによってそのことを現す、ということで良いでしょう。必ずそのことによってそのことを現す、そのことによってそのことの内容を説き示す。そのことを説き示すのに、他のものを持ってきて説き示す必要がないのですね。それがどのようなものでも良いです。すべてこの身の上に現れるのですね。この身の上に現れないものは、取り扱おうと思っても無理です。
毎日色々なニュースがありますが、自分の身の上にそのニュースが現れなければ、そういうことがあることを知るということは無理です。みなそうやってこの身心の様子の上で生きているのです。しかし人間はそれを他所のことだと思う。他所のことでなく、すべてこの身心の上のことなのです。〕
合掌
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