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正4−9−2『第四身心学道』第九段②〔此の身を現じて、得度して説法を為す:尽十方界真実人体のこの身を現し、得度して法を説く〕


〔『正法眼蔵』原文〕

或現此身得度而為説法ワクゲンシシントクドニイセッポウ

《或いは此の身を現じて、得度して説法を為す》なり、


或現他身得度而為説法

《或いは他の身を現じて、得度して説法を為す》なり、


或不現此身得度而為説法

《或いは此の身を現ぜずして、得度して説法を為す》なり、


或不現他身得度而為説法

《或いは他の身を現ぜずして、得度して説法を為す》なり、


乃至不為説法《ないし説法を為さず》なり。 



〔抄私訳〕

「或いは此の身を現す」とは、「尽十方界真実人体」〈尽十方世界であるこの真実の身体〉の身である。「或いは他の身を現し得度して説法を為す」とあるのも、「尽十方界真実人体」の他の身である。だから、自他はそれぞれ別でない道理が明らかである。「ないし説法を為さず」と、云々。「真実人体」の人を指して、「説法を為さず」とも言われるのであり、この説法の道理が、説法せずとも説かれるのである。つまるところ、理さえ極まっていれば、「説法を為す」「説法を為さず」とどちらに言われても、少しも繋縛ケバク(心が外界の事物につながれしばられる)されないのである。これを解脱の理とも言い、仏法とも説くのである。


経によって道理を解釈するのは三世諸仏の怨であり、文字モンジの法師教理ばかり学んで修行が伴わない僧の見解と取るべきである。経の一字を離れては魔説と同じである、今の仏法〈禅宗〉の方で解すべきである。

言葉のはたらきを、上位の聖人が下位の者に授ける説法と理解してはならない、尽十方界の姿を、説法と取るからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

〔このような身心の現れる様子を、『法華経』普門品フモンボンの中の句によって次に挙げてあります。〕


或いは尽十方界真実人体〈尽十方世界であるこの真実の身体〉のこの身を現し、

得度生死の苦の世界を超えて、涅槃の安楽の世界に渡ることして法を説き、

(或いは此の身を現じて、得度して説法を為すなり、)


或いは尽十方界真実人体の他の身を現し、得度して法を説き、

(或いは他の身を現じて、得度して説法を為すなり、)


或いは尽十方界真実人体のこの身を現さないで、得度して法を説くのである。

(或いは此の身を現ぜずして、得度して説法を為すなり、)


或いは尽十方界真実人体の他の身を現さないで、得度して法を説き、

(或いは他の身を現ぜずして、得度して説法を為すなり、)


または法を説かないのである。(ないし説法を為さずなり。)



〔評釈〕

〔難しいように聞こえるかもしれませんが、そのことによってそのことを現す、ということで良いでしょう。必ずそのことによってそのことを現す、そのことによってそのことの内容を説き示す。そのことを説き示すのに、他のものを持ってきて説き示す必要がないのですね。それがどのようなものでも良いです。すべてこの身の上に現れるのですね。この身の上に現れないものは、取り扱おうと思っても無理です。


毎日色々なニュースがありますが、自分の身の上にそのニュースが現れなければ、そういうことがあることを知るということは無理です。みなそうやってこの身心の様子の上で生きているのです。しかし人間はそれを他所のことだと思う。他所のことでなく、すべてこの身心の上のことなのです。〕



                            合掌



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