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正4-9-4『第四身心学道』第九段④〔たとひ威音王よりさきに発足学道すれども:たとえ最初に出た仏より前にどんなに早く学道を始めたとしても〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

たとひ威音王イオンノウよりさきに発足学道すれども、


なほこれみずからが児孫ジソンとして増長するなり。



〔抄私訳〕

「威音王」とは、はるかに遠い過去を指すのである。今の学道の様子は、前後遠近を超越するので、学道でない時はないから、「威音王よりさきに発足学道すれども」とあるのである。


「みづからが児孫として増長するなり」と言えば、逆であるように思われる。そのわけは、「みづからが児孫」と指す「みづから」は、「尽十方界真実人体」の人である。だから、「威音王」からの学道は、「みづから」の「児孫」と言うことができよう。逆のようであるが、この学道の道理を、今初めて聞いたといって驚いてはならない。過去の七仏は我が弟子であると釈尊が言われたことを疑うことができないからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

たとえ威音王仏(最初に出た仏)より前にどんなに早く学道を始めたとしても、

(たとひ威音王イオンノウよりさきに発足学道すれども、)


私たちが釈尊の児孫として、釈尊が自覚されたように自分自身の真相を自覚していく〈増長する〉のである。

(なほこれみずからが児孫ジソンとして増長するなり。)


〔釈尊が自覚された内容が言葉として伝えられていても、その内容を自覚する人がいなければ増長はしません、増えていきません。私たち一人一人が釈尊が自覚された内容を自覚できることによって、その内容が確かだと証明され、日常生活の中で実践され、その中で安らぎが得られる、ということが仏道の真意でしょう。〕



                            合掌



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