〔『正法眼蔵』原文〕
しかあるに、棄身するところに揚声止響ヨウセイシキョウすることあり、
捨命するところに断腸得髄ダンチョウトクズイすることあり。
〔抄私訳〕
「棄身するところに揚声止響することあり、捨命するところに断腸得髄ダンチョウトクズイすることあり。」という言葉は、理解し難い。先ず、「尽十方界真実人体」〈尽十方世界であるこの真実の身体〉の身を棄てるとか棄てないとは、どういうことであろうか。
「揚声止響」の言葉は、やはり道理にあわない。「揚声」すれば、「止響」できず、「止響」すれば、「揚声」は止まると思われるから、理解できない。もっとも、今の道理は、「尽十方界真実人体」であるところが、「揚声止響」なのである。「尽十方界真実人体」と説くことが、「揚声」に当たる。この道理が「止響」と言われるのである。「揚声」と「響」をそれぞれ別に置いて、揚げるぞ止めるぞと論じるのではない。
「捨命」というのも、どこにどのように捨てるのか。「尽十方界真実人体」と参学するところが「捨命」に当たるのである。「断腸得髄」も「捨命」の言葉に引き寄せられ、「揚声止響」の理と違わない。これらの道理によって、「断腸」とも、「得髄」とも説くのである。
〔聞書私訳〕
/「揚声止響」のことは、考え合わせるべきことがある。呼んでも響かない谷と言う、これこそ「揚声止響」 である。『現成公案』の巻で、声を聴取する(聴く)のだ、色(形のあるもの)を見取する(見る)のだとある取の字は、つまるところ、声をも聞かず、色をも見ないということが究極の理である。
「不見(見ないこと)を如来と名づける」ということもあり、「陰陽(宇宙)の外の地」ということもある。「三界唯一心」(三界のすべてのものはただ一心である)とも、「尽十方界真実人体」〈尽十方世界であるこの真実の身体〉とも言うのはこれである。「無根」(根が無い)と言うのも、「庭前の柏の樹」(真実は庭さきの柏の樹にも顕現している)である。また、「草木国土悉皆成仏」(草木国土ことごとく皆成仏している)と言うとき、根の有無があるだろうか。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるけれども、法のため身を棄てるところに声を揚げて声の起こるもとを知れば響きを止めることがあり、
(しかあるに、棄身するところに揚声止響ヨウセイシキョウすることあり、)
法のため命を捨てるところに断腸の思いをして本当に真相をはっきりさせていくこと〈得髄〉があるのである。
(捨命するところに断腸得髄することあり。)
合掌
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