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正4-8-1『第四身心学道』第八段①〔身学道といふは、身にて学道するなり:身学道とは、この身体がこのまま真実の在り様を学ぶのであるということである〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 身学道シンガクドウといふは、身にて学道するなり。


赤肉団シャクニクダンの学道なり。


身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり。


尽十方界是箇真実人体ジンジッポウカイゼコシンジツニンタイなり、生死去来ショウジコライ、真実人体なり。


この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝サンボウに帰依キエして捨家出家する、真実の学道なり。このゆえに真実人体といふ。


後学コウガクかならず自然見ジネンケンの外道ゲドウに同ずることなかれ。



〔抄私訳〕 

「身にて学道する」とは、この凡夫の流転する身心を置いて、この上で仏法を学ぶように理解するであろうが、そうではない。この身体が、このまま仏道を学ぶのである。だから、このように言われるのである。


「赤肉団の学道なり」とは、露わで隠れない意である。赤心片々(あらわな心が片々とある)などというほどの意である。つまる所、身体と学道の至って親切で離れることがない道理が、「身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり」(この身体は学道より来ており、学道より来ているのは、みなこの身体である)と言われるのである。


「尽十方界真実人体」、「生死去来真実人体」の様子は、後で詳しく解釈される。そもそも、「尽十方界真実人体」〈尽十方世界であるこの真実の身体〉の上で身体を使い、十悪を離れ、八戒を保ち、三宝に帰依し、捨家出家する姿とは、どのようであろうか、どうもはっきりしない。


もっとも、「尽十方界」と説く上で、戒を受け、十悪を離れ、三宝に帰依し、捨家出家することは、殊に甚だ深い功徳と親切な理である。間違って理解して、この身が「尽十方界」であるようなときには、何もしなくてもそれでよいだろう、ただ眠っているのと同じことだ、などと言う邪見をおこす輩ヤカラも当時は多かった。これは外道の邪見であり、随ってはならないたぐいである。


つ、その証しが無いわけではない。釈尊は、王城を出て、難行苦行し、積功累徳シャックルイトクされた。迦葉カショウ尊者は、一生の間、十二頭陀ズダ(十二種の托鉢修行)を行じ暫くも休息しなかった。これは何が不足でこのように身体を苦しめられたのか、よく考えてみるべきことである。


しかしまた、黙然としていたづらに眠っているように見える人が、祖師や先達の中にも時折りいるが、それは前に言ったような邪見のたぐいとは天地が隔たっているように区別すべきであり、よく考え観察すべきである。


また、「尽十方界真実人体」の理を、そのまま「八戒」とも、「悪を離れる」とも、「三宝に帰依する」とも、或いは「捨家出家する」とも理解するとすれば、それは決して理と違わない。


今までは、五蘊ゴウン(身心の構成要素)が集まり積もった迷いの身で、仏を礼拝し、お経を読誦すれば、罪を滅し善を生じ、或いは仏果菩提を得ると理解していたが、今は、合掌低頭ガッショウテイズ(手を合わせ頭を下げること)・礼拝・焼香・坐禅の姿が、そのまま「尽十方界」の理であり、身心依正シンジンエショウ(肉体と精神と、業の報いとして受ける環境とそれをより所とする身体)が、そっくりそのまま「尽十方界」に解脱された貴いものであると、これらの道理を見聞ミキキするのである。


始めも知れない遠い昔より聞くことができなかった理を、今すでに、思う存分見聞し手で触れて知るのである。随喜(他者の善行を見て喜ぶこと)すべきである、歓喜すべきである。


                             合掌



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