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正4-7-3『第四身心學道』 第七段その3〔平常心:平生の様子〕


〔『正法眼蔵』原文〕      

「平常心ビョウジョウシン」といふは、此界シカイ他界といはず、平常心なり。

《注:平常心とは世の常という言葉である》


昔日セキジツはこのところよりさり、今日はこのところよりきたる。


さるときは漫天さり、きたるときは尽地きたる。これ平常心なり。


平常心この屋裏に開門す、千門万戸バンコ一時開閉なるゆえに平常ビョウジョウなり。


いまこの蓋天ガイテン蓋地ガイチは、おぼえざることばのごとし、噴地フンチの一声のごとし。



〔抄私訳〕

本当に、「平常心」と言うような時は、此の世界・他の世界と言ってはならない。この「去来」の言葉は、凡見と同じではなく、『身心学道』の巻の最後の段で「尽十方世界を両翼三翼として飛去飛来ヒコヒライし、尽十方世界を三足五足として進歩退歩するなり」と言ったほどの「去来」である。尽地尽天とは、普通の天地ではなく、心〈今の様子〉を「漫天」と使い、心〈今の様子〉を「尽地」と使うほどのことである。この上の去来・進歩退歩は、上のように理解するのである。


「平常心」はこの「屋裏で「開門」の道理があり、「千門万戸」があり、「開閉」の道理もある。これらは皆、心の上の功徳や威厳のある容儀(正しい立ち居振る舞い)が現れたと理解するのである。


この「蓋天蓋地」は、全天全地である。「蓋」は尽界などというほどの意味である。今このように言われる言葉が、何に当たり、何を指して言うのか理解できない。「噴地の一声」とは、くしゃみをいうのである。これほどのことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

「平常心」〈平生の様子〉とは、此の世界では平常心だが他の世界では平常心でないと言わず、どこでもみな平常心である。

(「平常心ビョウジョウシン」といふは、此界シカイ他界といはず、平常心なり。)


過去はここ〈この身心のある所〉から去り、今はここから来る。

(昔日はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる。)

〔さっき見えていたものがここからなくなり、今の様子がここで見えます。音もそうです。さっき聞こえた音がここからなくなり、今の音がここで聞こえます。〕


去る時は何もかも去り、来る時は何もかも来るというような生命活動をしている。これがあらゆる人の平生の様子である。

(さるときは漫天さり、きたるときは尽地きたる。これ平常心なり。)

〔見えているものが瞬時に何もかもなくなり、今の様子が瞬時に見えます。バン!と聞こえ瞬時に消えます。さっきまでの思いが消え、新たな思いが浮かびます。この身心の活動が瞬時に生じ瞬時に滅し、このような生命活動が続いていきます。これがあらゆる人の平生の様子です。〕


平生の様子〈平常心〉はこの家〈この身心のある所〉で門を開き〈生じ〉、多くの家〈多くの身心のある所〉で一斉に開閉〈生命活動〉するから、あらゆる人の平生の様子なのである。

(平常心この屋裏に開門す、千門万戸一時開閉なるゆえに平常なり。)


今、この全天全地は、理解できない言葉のようであり、くしゃみの一声のようである。

(いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地の一声のごとし。)

〔「ハクション!」、それが全天全地だ。〕



                              合掌



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