正4-11-4 『第四身心学道』第十一段④〔暦日は短促なりといへども、学道は幽遠なり:光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、本当の在り様を学ぶことは奥深くて永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである〕
〔『正法眼蔵』原文〕
暦日レキジツは短促タンソクなりといへども、学道は幽遠ユウオンなり。
捨家出家せる風流たとひ粛然シュクゼンなりとも、樵夫ショウフに混同することなかれ。
活計カッケイたとひ競頭キョウトウすとも、佃戸デンコに一斉イッセイなるにあらず。
迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際キワにとどむることなかれ。
〔抄私訳〕
実に、日夜の光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、学道は奥深くて永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである。「捨家出家」の姿が、たとえ物寂しくあっても、「樵夫」(きこり)が、山に入り山を出る姿と同じだとしてはならないというのである。
「活計たとひ競頭すとも、佃戸に一斉なるにあらず」とは、「活計」とは、問訊(挨拶)・礼拝・坐禅弁道の姿を指すが、「佃戸」(小作人)と同じだとしてはならないというのである。佃戸とは、卑しい民のことである。だから、「迷悟善悪の論と比することなかれ」というのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、本当の在り様を学ぶことは奥深く永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである。
(暦日レキジツは短促タンソクなりといへども、学道は幽遠ユウオンなり。)
家を捨て出家した生きざまがたとえひっそりとして物悲しくても、樵夫(きこり)と混同してはならない 。
(捨家出家せる風流たとひ粛然ユウゼンなりとも、樵夫ショウフに混同することなかれ。)
暮らし向きの苦労が次々と起るといっても、貧しい小作農家と同じであるということではない。
(活計カッケイたとひ競頭キョウトウすとも、佃戸デンコに一斉イッセイなるにあらず。)
〔あらゆる学道の苦労は仏行である。〕
迷か悟か善か悪かの論と比べてはならない、邪が正か真か偽かのほとりに留まっていてはならないのである。
(迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際キワにとどむることなかれ。)
合掌
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