〔『正法眼蔵』原文〕
いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり。
これらを蹉過サカすることなく学道するなり。
〔抄私訳〕
「いまのなんぢ、いまのわれ」とは、皆「尽十方界」を指して言うのである。
だから、「真実人体なる人なり」と言うのである。これらを、無駄に過ごさず学道せよというのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
今の汝も、今の吾れも、みな尽十方世界である真実人体の人である。
(いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり。)
これらのことを無駄に過ごさず道〈本当の在り様〉を学ぶのである。
(これらを蹉過サカすることなく学道するなり。)
〔『正法眼蔵』原文〕
たとひ三大阿僧祇劫アソウギコウ、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも、
捨身受身しもてゆく、
かならず学道の時節なる、進歩退歩学道なり。
〔抄私訳〕
この「捨身受身」の言葉は、以前にも触れている。「尽十方界」の上の「捨身受身」はどのようであるのかがはっきりしない。もっとも、「尽十方界真実人体」と説く人を「捨身受身」と言うから、ただこの「捨身受身」は、「尽十方界真実人体」なのである。
岸より身を投げ、虎に身を害させようとするのを、「捨身」と決して理解してはならない。この「尽十方界」の道理が、「三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも」学道の時節でない所がない。だから、この道理によって、「進歩」とも「退歩」とも使うのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
たとえ三大阿僧祇劫(永遠の時間の三倍の時間)、十三大阿僧祇劫(左の十倍の時間)、無量阿僧祇劫(無量の永遠の時間)までも、
(たとひ三大阿僧祇劫アソウギコウ、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも、)
身を捨てたり身を受けたりしていくとしても、
(捨身受身しもてゆく、)
どのように修行するかと言えば、必ずこの身心の活動の様子に道を学ぶのである。
(かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり。)
合掌
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