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正4-10-2『第四身心学道』第十段②〔人体は四大五蘊なり:尽十方界である真実人体は四大・五蘊のこの身心である〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

人体は四大五蘊シダイゴウンなり、

大塵ダイジンともに凡夫の究尽グウジンするところにあらず、

聖者ショウジャの参究するところなり。


〔抄私訳〕)

これは「真実人体」の人の身体を解釈されるのである。この四大五蘊も、凡夫が具えている四大五蘊ではないから、「聖者の参究するところなり」と言うのである。


〔『正法眼蔵』私訳〕)

尽十方界である真実人体は四大(地水火風)・五蘊(色受想行識)のこの身心であり、

(「人体」は四大五蘊シダイゴウンなり、)


四大六塵(色声香味触法の六境)のこの身心は、決して凡夫が究め尽くすことができるものではなく、

(大塵ダイジンともに凡夫の究尽グウジンするところにあらず、)


聖者(煩悩を捨て正しい道理を悟った人)だけがこれを明らかにすることができるのである。(聖者の参究するところなり。) 



〔『正法眼蔵』原文〕

又、一塵ジンに十方を諦観すべし、

十方は一塵に囊括ノウカツするにあらず。


〔抄私訳〕

「一塵」は小さく、「十方」は大変広いと思いがちであるが、「一塵」と「十方」は、決して広狭多少に関わるものではない。「一塵」がすなわち「十方」であり、「十方」がすなわち「一塵」である。だから、「十方は一塵に囊括するにあらず」と言うのである。


〔聞書私訳〕

/この「一塵」とは、色声香味触の五塵の一つをあげて「一塵」と言う、役に立たないチリ一つではない。この「一塵」は、「真実人体」であるから、「諦観」するのである。


〔『正法眼蔵』私訳〕)

また、眼耳鼻舌身意の一々の働き〈一塵〉の上に十方界を

諦観(明らかに見て取る)すべきである。

(又、一塵ジンに十方を諦観テイカンすべし、)


かといって、十方界は眼耳鼻舌身意の一々の働き〈一塵〉の中に包み込まれるというのではなく、ただ諦観するのである。

(十方は一塵に囊括ノウカツするにあらず。)



〔『正法眼蔵』原文〕

あるひは一塵に僧堂・仏殿を建立コンリュウし、

あるひは僧堂・仏殿に尽界を建立せり。

これより建立せり、建立これよりなれり。

恁麼インモの道理、すなはち尽十方界真実人体なり。

自然ジネン天然テンネンの邪見をならふべからず。


〔抄私訳〕

「一塵に僧堂・仏殿を建立」することはできず、まったく信じられないようなことであるが、この「一塵」は、大小の論を超越しているのであるから驚くことはない。そのまま「僧堂・仏殿」を「一塵」と説くのであるから驚くことはない。


この上での「建立」であるから造作の意味ではなく、「僧堂・仏殿」がそのまま「建立」であるのである。尽十方界を指して「建立」と言うのであるから、「尽界を建立せり、これより建立せり、建立これよりなれり、恁麼の道理、すなはち尽十方界真実人体なり」と言われるのである。


〔『正法眼蔵』私訳〕

或いは僧堂に眼を向けると僧堂が瞬時にこの身心の上に立ち上がり、

仏殿の所に行くと瞬時に仏殿がこの身心の上に〈一塵に〉立ち上がる〈建立す〉

或いは僧堂を見ている時はすべてが僧堂である様子が立ち上がっているだけであり、仏殿を見ている時はすべてが仏殿である様子が立ち上がっているだけである。

(あるひは一塵に僧堂・仏殿を建立し、あるひは僧堂・仏殿に尽界を建立せり。)


この身心よりあらゆるものが立ち上がり、

立ち上がっているものはすべてこの身心の様子なのである。

(これより建立せり、建立これよりなれり。)


このような道理が、すなわち私たちの尽十方世界であるこの真実の身体である。(恁麼インモの道理、すなはち尽十方界真実人体なり。)


だから、自然外道ジネンゲドウ・天然外道(外に万法がありそれに対して自己があるとする、道を外れた教え)の邪見を決して学んではならない。

(自然ジネン天然テンネンの邪見をならふべからず。)



                           合掌



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