〔『正法眼蔵』原文〕
「尽十方世界」といふは、十方面ともに尽界なり。
東西南北四維シユイ上下を十方といふ。
かの表裏縦横の究尽なる時節を思量すべし。
〔抄私訳〕)
「東西南北四維上下」をたばねて、「尽十方世界」と言うと思っているが、これは、東と言う時も「尽十方世界」であり、西を言う時も「尽十方世界」であり、南も北も「尽十方世界」であり、四維上下も「尽十方世界」である。一方一方のそれぞれで「尽十方世界」を尽くすのである。だから、「表裏縦横の究尽なる時節」と言うのである。)
〔『正法眼蔵』私訳〕
「尽十方世界」とは、東を向いている時はすべて東であり、どちらを向いてもその向いている方角が全世界である。
(「尽十方世界」といふは、十方面ともに尽界なり。)
〔これが実物の見え方です。〕
東・西・南・北・北東・南東・南西・北西・上・下を十方と言う。
(東西南北四維シユイ上下を十方といふ。)
〔これは観念の世界での認識の仕方です。〕
表を見ている時はすべてが表であり、裏を見ている時はすべてが裏であり、縦を見ている時はすべてが縦であり、横を見ている時はすべてが横であり、今は今の様子が出て来るだけで先程の様子が出てくることは一切ないという、この事実から学ぶべきである。
(かの表裏縦横の究尽なる時節を思量すべし。)
〔『正法眼蔵』原文〕
思量するといふは、人体はたとひ自他に罣礙ケイゲせらるといふとも、
尽十方なりと諦観タイカンし、決定ケツジョウするなり。
〔抄私訳〕
「人体はたとひ自他に罣礙せらるといふとも」とは、自他が脱落している「人体」であるからである。だから、「たとひ自他に罣礙せらるといふとも、尽十方なりと諦観すべし」と言うのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
その十方を思量するとは、人の身体はたとえ自己は自己に邪魔されて自己きり、他人は他人に邪魔されて他人きりだといっても、
(思量するといふは、人体はたとひ自他に罣礙ケイゲせらるといふとも、)
自己は自己で尽十方、他人は他人で尽十方であると明らかに見、決定(決断安住して不動なること)することである。
(尽十方なりと諦観し、決定ケツジョウするなり。)
〔『正法眼蔵』原文〕
これ未曽聞ミゾウモンをきくなり、方等なるゆえに、界等なるゆえに。
〔抄私訳〕
「尽十方界」は、前々から解釈されている。今は、「方等」「界等」とは、「尽十方界」の「方」と「界」を説かれるのである。「方」も等しく、「界」も等しいというのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
〔尽十方がわが身だということは、ありふれた言葉だと思って迂闊に聞いてはならない、〕いままでに聞いたことのないお示しを聞くのである、
(これ未曽聞ミゾウモンをきくなり、)
あらゆる十方が平等であり、あらゆる世界が平等であるからである。
(方等なるゆえに、界等なるゆえに。)
合掌
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