〔『正法眼蔵』原文〕 「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。 ときに国師いはく、「牆壁瓦礫 ショウヘキガリャク 」。 しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、古仏心、それかくのごとく学するなり。 〔抄私訳) これもまたいつものように、「牆壁瓦礫」の究尽する時、「古仏心」と言わない、古仏心の独立する時、牆壁瓦礫と言わないという意味合いである。これが即ち、一法独立の姿である。 〔聞書私訳) / 《頭注:「大証国師」の問答のことである》 「牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」と、返して言うのも、やはり能所があるように見える。ただ親切に「牆壁瓦礫」とだけ言うべきである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 「古仏心」とは、昔、一人の僧がいて、大証国師 ( 南陽慧忠 ナンヨウエチュウ 、唐代の禅僧、六祖慧能の直弟子) に問うた、「古仏心とはどのようなものですか」と。 (「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。) その時、国師は答えて言った、「牆壁瓦礫」。 (ときに国師いはく、「牆壁瓦礫 ショウヘキガリャク 」。) そうであるから知るといい、古仏心は牆壁瓦礫 (かきね・かべ・かわら・こいし) ではなく、牆壁瓦礫を古仏心と言うのではない。 (しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、) 「古仏心」は 「古仏心」 、このように聞こえる通り修行するのである。 (古仏心、それかくのごとく学するなり。) 〔一般には、「古仏心は何か」と聞かれ、国師が「古仏心は牆壁瓦礫である」と答えたと思いますが、国師は「牆壁瓦礫」と言っただけなのです。 「牆壁瓦礫」が私たちの身心に響いた実物の様子です。 私たちはそれに前後関係から、言葉(「古仏心は〇〇である」)を勝手に付け加えて、「古仏心は牆壁瓦礫である」というふうに理解するのです。人の話を聞く時、ほとんどの人は聞こえた通り受け取らず、言葉を勝手に加えたり削ったり変えたりして理解します。 そのために、相手はそんなことは言っていないのに、誤解したり、苦しんだり、怒ったりします。或いは、「ホーホケキョ!」あ、うぐいすがホーホケキョと鳴いていると、思量で汚してしまい、「ホーホケキョ!」の実物のままにいることができず、