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正4-7-2『第四身心学道』第七段②〔古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず:古仏心は、牆壁瓦礫ではない、牆壁瓦礫を古仏心と言うのではない〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。 ときに国師いはく、「牆壁瓦礫 ショウヘキガリャク 」。 しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、古仏心、それかくのごとく学するなり。 〔抄私訳) これもまたいつものように、「牆壁瓦礫」の究尽する時、「古仏心」と言わない、古仏心の独立する時、牆壁瓦礫と言わないという意味合いである。これが即ち、一法独立の姿である。 〔聞書私訳) / 《頭注:「大証国師」の問答のことである》 「牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」と、返して言うのも、やはり能所があるように見える。ただ親切に「牆壁瓦礫」とだけ言うべきである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 「古仏心」とは、昔、一人の僧がいて、大証国師 ( 南陽慧忠 ナンヨウエチュウ 、唐代の禅僧、六祖慧能の直弟子) に問うた、「古仏心とはどのようなものですか」と。 (「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。) その時、国師は答えて言った、「牆壁瓦礫」。 (ときに国師いはく、「牆壁瓦礫 ショウヘキガリャク 」。) そうであるから知るといい、古仏心は牆壁瓦礫 (かきね・かべ・かわら・こいし) ではなく、牆壁瓦礫を古仏心と言うのではない。 (しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、) 「古仏心」は 「古仏心」 、このように聞こえる通り修行するのである。 (古仏心、それかくのごとく学するなり。) 〔一般には、「古仏心は何か」と聞かれ、国師が「古仏心は牆壁瓦礫である」と答えたと思いますが、国師は「牆壁瓦礫」と言っただけなのです。 「牆壁瓦礫」が私たちの身心に響いた実物の様子です。 私たちはそれに前後関係から、言葉(「古仏心は〇〇である」)を勝手に付け加えて、「古仏心は牆壁瓦礫である」というふうに理解するのです。人の話を聞く時、ほとんどの人は聞こえた通り受け取らず、言葉を勝手に加えたり削ったり変えたりして理解します。 そのために、相手はそんなことは言っていないのに、誤解したり、苦しんだり、怒ったりします。或いは、「ホーホケキョ!」あ、うぐいすがホーホケキョと鳴いていると、思量で汚してしまい、「ホーホケキョ!」の実物のままにいることができず、

正4-7-1『第四身心学道』第七段①〔赤心片々:あらわな心は一々その時にその様子しかない〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 「赤心片々 セキシンヘンペン 」といふは、片々なるはみな赤心なり。 一片両片にあらず、片々なるなり。 荷葉 カヨウ 団々団似鏡、菱角 リョウカク 尖々 センセン 尖似錐 《荷葉団々、団なること鏡に似たり、菱角尖々、尖なること錐 キリ に似たり》。 かゞみににたりといふとも片々なり、錐ににたりといふとも片々なり。 〔抄私訳〕 「赤心」とはあらわな心 〈今の様子〉 であり、解脱の意味合いである。心 〈今の様子〉 の無辺際である道理、一つの法 が 究尽している理をこのように言うのである。一片とも二片とも決めることはできず、ただ「片々」なのである。 これは、はすの葉は丸々として、丸いことで法界を尽くし、ひしの角は、尖々として鋭いいことで法界を尽くす意味合いである。他のものを交えない意味合いである。丸であれば尽十方が丸、ひしの角であれば尽界がひしの角であるということである。言葉は変わっても、究尽の理は同じであるのだから、「鏡に似たれども片々、錐に似たれども片々」と言うのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 「あらわな心 〈今の様子〉 は一々その時にその様子しかない」とは、 一々その時にその様子しかないのはみなあらわな心 〈今の様子〉 であるということである。 (「赤心片々」といふは、片々なるはみな赤心なり。) 一つとか二つとかたくさんとか全部とかそういう様子ではない、 一々その時にその様子しかないのである。 (一片両片にあらず、片々なるなり。) はすの葉は丸々として、その丸いところは鏡のようであり 〈向かうと必ず完璧にこの通り見え〉 、 菱 ヒシ の実の角 カド は尖 トガ っており、その尖っているところは錐 キリ のようである 〈こうやったら即座にズバッとこうなる。このように私たちは完璧に的確に生活しているのである〉 。 (荷葉団々として、団なること鏡に似たり、菱角尖々として、尖なること錐 キリ に似たり。) どんなに鏡のように丸いと言ってみても一々その時にはその様子しかなく、 どんなに錐のように鋭いと言ってみても一々その時にはその様子しかなく、 あらゆるものは一々その時にその様子があるだけなのである。 (かがみにゝたりといふとも片々なり、錐にゝたりといふとも片々なり。) 〔地球から見る月は、満月もあれば、半月もあり、三日月もあるが、その時その時の

正4-6-2『第四身心学道』六段②〔発菩提心は、有にあらず無にあらず:悟りを求める心を発すことは、有るでもなく無いのでもない〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 発菩提心 ホツボダイシン は、有にあらず無にあらず、 善にあらず悪にあらず、無記にあらず、 報地によりて縁起するにあらず、 天有情はさだめてうべからざるにあらず。 ただまさに時節とともに発菩提心するなり、 依 エ にかかはれざるがゆえに。 〔抄私訳〕 発菩提心は、上に挙げた有無以下によって縁起するのでははない。「境発にあらず、智発にあらず」 〈環境によって起こるのではない、智慧によって起ころのではない〉 と言われたほどの意である。「天有情はさだめてうべからざるにあらず」とは、天上界の楽に得意になって仏法を修行しないから、発菩提心の至らない所もあると思われる。 しかし、発菩提心が究め尽くす道理であり、発菩提心できない所もあるだろうと思ってはならない。ただ全世界はすべて発菩提心である道理である。どうして、発菩提心するという道理がないのか。発菩提心だけが独立するから、依るべきものはない。だから、「依にかかはれざるがゆえに」と言うのである。「依にしらるるにあらず」と言うのもこの道理である。全依 (全てが依) が依全 (依が全て)〈依るもの・依られるものと区別しないこと〉 と、「依」を理解するほどの意である。 〔聞書私訳〕 /「報地によりて縁起するにあらず」と言う。 「報地」は、我々の果報 ( 過去の業因により感得する報い) の土地であり、仏土ではない。又、仏土を報土と言うのも、修因感果 (修行を因として、それにふさわしい証果を得ること) の地である。 /「天有情」とは、天上界の衆生である。この「さだめて」という言葉は、不審である。天上界の衆生は、全く「発菩提心」という事はないに違いないと、禅宗以外の宗派で言っているが、ここではこの「発菩提心」という事を「得るのではない」と言い、「得るのである」というように思われるが、そうではない。「ただまさに時節とともに発菩提心するなり、依にかかはれざるがゆえに」、「発菩提心」の正にその時に当たって、世界はすべて「発菩提心」であると言う。天上界の衆生も「発菩提心」であると理解すべきであり、得不得 (出来る出来ない) があるのではないのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 悟りを求める心を発 オコ すことは 、有るのでもなく無いのでもなく、            善でもなく悪でもなく、善悪以外でもない、 (発菩提心は、

正4-6-1『第四身心学道』第六段①〔発菩提心:悟りを求める心を発す〕

〔『正法眼蔵』原文〕 「発菩提心」 ハツボダイシン は、あるひは生死 ショウジ にしてこれをうることあり、 あるひは涅槃 ネハン にしてこれをうる事あり、 あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり、 ところをまつにあらざれども、発心 ホッシン のところにさへられざるあり。 境発 キョウホツ にあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり。 〔抄私訳〕 この生死と涅槃を、そのまま心と取るから、このように言われるのである。「生死涅槃のほかにしてうる」とは、「生死涅槃」を「ほか」と指すのである。決してこの「ほか」は、内外の外ではない。「心」を「ほか」と理解すべきである。 本当に、「発心」 (菩提心を発すこと) は、時所を待つのではないが、「発心」は時所に妨げられない道理である。 発心は境 キョウ(六境:知覚対象) に対して発 オコ るのでもなく、智慧より発るものでもない。だから、「菩提心発」 (菩提心が発る) と決着を付けられるのである。 「発菩提心」と言えば、確かに発す人と発される菩提心が、それぞれ別と思いがちなところを、「菩提心発」と説けば、能所、自他を離れているのである。「菩提心」を「発」と使うから、「菩提心発」というのが殊に親切な「発菩提心」なのである。 〔聞書私訳〕 /「ところを待つにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」とは、「あらざれども」と言って、「さへられざるあり」と言う。言葉が相応していないように一旦は思われるが、すべてこの「発菩提心」が、「生死」「涅槃」であり、また「生死」「涅槃」の外に、まったく得ない所がないから、待つのではなく、また、妨げられないのである。別の意味はない。 〔『正法眼蔵』私訳〕 発菩提心 〈悟りを求める心を発すこと〉 は、或いは生死において得ることがあり、 (「発菩提心」 ハツボダイシン は、あるひは生死 ショウジ にしてこれをうることあり、) 或いは涅槃 (悟りの境地) において得ることがあり、 (あるひは涅槃 ネハン にしてこれをうる事あり、) 或いは生死にも涅槃にもあずからない心において得ることがある。 (あるひは生死涅槃のほかにしてうることあり。) 発菩提心はその時所を待つのではないが、 発菩提心はその時所に妨げられないのである。 (ところをまつにあらざれども、 発心 ホッシン のところにさへ