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正4-7-1『第四身心学道』第七段①〔赤心片々:あらわな心は一々その時にその様子しかない〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

「赤心片々セキシンヘンペン」といふは、片々なるはみな赤心なり。


一片両片にあらず、片々なるなり。


荷葉カヨウ団々団似鏡、菱角リョウカク尖々センセン尖似錐

《荷葉団々、団なること鏡に似たり、菱角尖々、尖なること錐キリに似たり》。


かゞみににたりといふとも片々なり、錐ににたりといふとも片々なり。



〔抄私訳〕

「赤心」とはあらわな心〈今の様子〉であり、解脱の意味合いである。心〈今の様子〉の無辺際である道理、一つの法究尽している理をこのように言うのである。一片とも二片とも決めることはできず、ただ「片々」なのである。


これは、はすの葉は丸々として、丸いことで法界を尽くし、ひしの角は、尖々として鋭いいことで法界を尽くす意味合いである。他のものを交えない意味合いである。丸であれば尽十方が丸、ひしの角であれば尽界がひしの角であるということである。言葉は変わっても、究尽の理は同じであるのだから、「鏡に似たれども片々、錐に似たれども片々」と言うのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

「あらわな心〈今の様子〉は一々その時にその様子しかない」とは、

一々その時にその様子しかないのはみなあらわな心〈今の様子〉であるということである。

(「赤心片々」といふは、片々なるはみな赤心なり。)


一つとか二つとかたくさんとか全部とかそういう様子ではない、

一々その時にその様子しかないのである。

(一片両片にあらず、片々なるなり。)


はすの葉は丸々として、その丸いところは鏡のようであり〈向かうと必ず完璧にこの通り見え〉

ヒシの実の角カドは尖トガっており、その尖っているところは錐キリのようである〈こうやったら即座にズバッとこうなる。このように私たちは完璧に的確に生活しているのである〉

(荷葉団々として、団なること鏡に似たり、菱角尖々として、尖なること錐キリに似たり。)


どんなに鏡のように丸いと言ってみても一々その時にはその様子しかなく、

どんなに錐のように鋭いと言ってみても一々その時にはその様子しかなく、

あらゆるものは一々その時にその様子があるだけなのである。

(かがみにゝたりといふとも片々なり、錐にゝたりといふとも片々なり。)


〔地球から見る月は、満月もあれば、半月もあり、三日月もあるが、その時その時の月の様子しか見えず、他の月の様子は見えないようになっています。

人は自分の今の様子以外の記憶とか思いの中にある様子と比べて苦しむのです。人が今の様子だけにいれば、人は苦しまない、悩まない、問題は起きないのです。ここが肝心なところです。〕


注:〈 〉内は訳者の独自注釈、〔 〕内は訳者の補足。

                               合掌



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