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正4-6-2『第四身心学道』六段②〔発菩提心は、有にあらず無にあらず:悟りを求める心を発すことは、有るでもなく無いのでもない〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

発菩提心ホツボダイシンは、有にあらず無にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず、


報地によりて縁起するにあらず、天有情はさだめてうべからざるにあらず。


ただまさに時節とともに発菩提心するなり、にかかはれざるがゆえに。



〔抄私訳〕

発菩提心は、上に挙げた有無以下によって縁起するのでははない。「境発にあらず、智発にあらず」〈環境によって起こるのではない、智慧によって起ころのではない〉と言われたほどの意である。「天有情はさだめてうべからざるにあらず」とは、天上界の楽に得意になって仏法を修行しないから、発菩提心の至らない所もあると思われる。


しかし、発菩提心が究め尽くす道理であり、発菩提心できない所もあるだろうと思ってはならない。ただ全世界はすべて発菩提心である道理である。どうして、発菩提心するという道理がないのか。発菩提心だけが独立するから、依るべきものはない。だから、「依にかかはれざるがゆえに」と言うのである。「依にしらるるにあらず」と言うのもこの道理である。全依(全てが依)が依全(依が全て)〈依るもの・依られるものと区別しないこと〉と、「依」を理解するほどの意である。


〔聞書私訳〕

/「報地によりて縁起するにあらず」と言う。

「報地」は、我々の果報過去の業因により感得する報い)の土地であり、仏土ではない。又、仏土を報土と言うのも、修因感果(修行を因として、それにふさわしい証果を得ること)の地である。


/「天有情」とは、天上界の衆生である。この「さだめて」という言葉は、不審である。天上界の衆生は、全く「発菩提心」という事はないに違いないと、禅宗以外の宗派で言っているが、ここではこの「発菩提心」という事を「得るのではない」と言い、「得るのである」というように思われるが、そうではない。「ただまさに時節とともに発菩提心するなり、依にかかはれざるがゆえに」、「発菩提心」の正にその時に当たって、世界はすべて「発菩提心」であると言う。天上界の衆生も「発菩提心」であると理解すべきであり、得不得(出来る出来ない)があるのではないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

悟りを求める心を発オコすことは、有るのでもなく無いのでもなく、           善でもなく悪でもなく、善悪以外でもない、

(発菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず、)


過去の業に対する報いから感得される環境が原因となって起こるのでもなく、

(報地によりて縁起するにあらず、)


天上界の衆生は天上界の楽を誇り仏道修行しないから出来ないということでもないのである。

天有情はさだめてうべからざるにあらず。)


ただ、現に今の時節と共に悟りを求める心を発すのである、環境の良し悪しに関わらないからである。

(ただまさに時節とともに発菩提心するなり、にかかはれざるがゆえに。)


                               合掌



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