〔『正法眼蔵』原文〕
「発菩提心」ハツボダイシンは、あるひは生死ショウジにしてこれをうることあり、
あるひは涅槃ネハンにしてこれをうる事あり、
あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり、
ところをまつにあらざれども、発心ホッシンのところにさへられざるあり。
境発キョウホツにあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり。
〔抄私訳〕
この生死と涅槃を、そのまま心と取るから、このように言われるのである。「生死涅槃のほかにしてうる」とは、「生死涅槃」を「ほか」と指すのである。決してこの「ほか」は、内外の外ではない。「心」を「ほか」と理解すべきである。
本当に、「発心」(菩提心を発すこと)は、時所を待つのではないが、「発心」は時所に妨げられない道理である。
発心は境キョウ(六境:知覚対象)に対して発オコるのでもなく、智慧より発るものでもない。だから、「菩提心発」(菩提心が発る)と決着を付けられるのである。
「発菩提心」と言えば、確かに発す人と発される菩提心が、それぞれ別と思いがちなところを、「菩提心発」と説けば、能所、自他を離れているのである。「菩提心」を「発」と使うから、「菩提心発」というのが殊に親切な「発菩提心」なのである。
〔聞書私訳〕
/「ところを待つにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」とは、「あらざれども」と言って、「さへられざるあり」と言う。言葉が相応していないように一旦は思われるが、すべてこの「発菩提心」が、「生死」「涅槃」であり、また「生死」「涅槃」の外に、まったく得ない所がないから、待つのではなく、また、妨げられないのである。別の意味はない。
〔『正法眼蔵』私訳〕
発菩提心〈悟りを求める心を発すこと〉は、或いは生死において得ることがあり、
(「発菩提心」ハツボダイシンは、あるひは生死ショウジにしてこれをうることあり、)
或いは涅槃(悟りの境地)において得ることがあり、
(あるひは涅槃ネハンにしてこれをうる事あり、)
或いは生死にも涅槃にもあずからない心において得ることがある。
(あるひは生死涅槃のほかにしてうることあり。)
発菩提心はその時所を待つのではないが、発菩提心はその時所に妨げられないのである。
(ところをまつにあらざれども、発心ホッシンのところにさへられざるあり。)
菩提心は、環境に対して発オコるのでもなく、智慧より発るものでもない。
(境発キョウホツにあらず、智発にあらず、)
ただ菩提心がひょっと発るのであり、それが発菩提心である。
(菩提心発なり、発菩提心なり。)
合掌
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