スキップしてメイン コンテンツに移動

正3『第三仏性』全十四段の総まとめ

 〔『正法眼蔵』評釈〕

『仏性』の巻は『正法眼蔵』の中で最も長い巻であり、最も重要な巻です。難解で長丁場でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。お陰様で何とか一つの形にすることができました。『御抄』私訳は、前駒沢大学総長の池田魯参ロサン先生の綿密な添削と教導を頂戴できなければとてもまともなものにはならなかったと改めて深く感謝しているところです。


さて、この巻を終えるにあたりまして、『仏性』の巻の全十四段を振り返り、祖師方の御言葉をまとめておきたいと思います。皆さまのご参考になれば幸いです。



◯第一段

・釈迦牟尼仏シャカムニブツゴン、「一切衆生、悉有仏性シツウブッショウ」。

釈迦牟尼仏は言う、「一切は衆生であり、衆生はすべてであり、すべては仏性である」。


・六祖大鑑慧能禅師ダイカンエノウゼンジいはく、「是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来キタる」。

六祖の大鑑慧能禅師は言う、「お前と呼ばれるすべてのものは何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ。是れと呼ばれるすべてのものは何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ」。


・道元禅師いはく、「尽界ジンカイはすべて客塵キャクジンなし、直下ジキゲさらに第二人あらず、直ヂキに根源を截るも人未だ識らず、忙忙たる業識ゴッシキ幾時イクトキか休せん」。

道元禅師は言う、「全世界は一点の煩悩もなく、また迷いもない。全世界に第二人はいない、仏性人一人きりだ。煩悩の根源は直きに切れる道理があるのを人は知らない、生死流転して忙セワしない業識〈理由なく浮かんでくる様々な意識〉の果てしがないからである。ところがよく見ると、この業識が砥石となって、我らを研いでくれるから仏になれるのだ。休みなき業識は仏性の現前だ」。


◯第二段

・仏言、「仏性の義を知らんとおもはば、まさに時節因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す」。

仏は言う「時節は既に至っており、仏性は現前している、それが時節の因縁である、仏性は常に現前しているのだ」。


◯第三段

・十二祖馬鳴メミョウ尊者ソンジャいはく、「山河大地皆よって建立し、三昧六通ザンマイロクツウこれによって発現す」。

十二祖の馬鳴尊者は言う、「山河大地など大自然はみな仏性によって建立し、禅定も六神通も仏性によって発現するのだ」。


◯第四段

・四祖大医道信禅師いはく、「汝無仏性」。

四祖の大医道信禅師は言う、「お前(五祖大満弘忍)は無であり、仏性である。」


◯第五段

・五祖大満弘忍ダイマンコウニン禅師いはく、「嶺南人レイナンジン無仏性、いかにしてか作仏せん」。

五祖の大満弘忍禅師は言う、「嶺南人は無であり仏性である。すでに仏性であるのにどのような仏になりたいというのか」。


◯第六段

六祖大鑑慧能ダイカンエノウ禅師いはく、「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり」。

六祖の大鑑慧能禅師は言う、「無常であるものは仏性である、有常は善悪など一切を分別する心である」。


◯第七段

十四祖龍樹尊者いはく、「汝、仏性を見んとおもはば、先づすべからく我慢を除くべし」。十四祖の龍樹尊者は言う、「おまえたち、仏性を見たいのなら、先ず我ありと驕り高ぶる心を除くべきである」。



                      合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

『正法眼蔵』番外編 〔未だ見ぬ次世代のあなたへ〕 

  新年に当たりまして、なぜ『正法眼蔵』読解に挑んでいるのかにつきまして少々述べさせていただきたいと思います。 今日、和暦令和六年、西暦2024年1 月5日、銀河系島宇宙の太陽系地球に生存している約80億人の人間社会は、混迷が深まっているようです。戦火は絶えることなく第三次世界大戦勃発が危惧され、飢餓人口が増え、難民が増え、人権抑圧が増え、精神を病む人が増え、自死者が増え、人間の欲望がとめどなく肥大化し、 自然破壊が深刻化し、災害が激甚化し、分断と対立抗争が深刻化し、 少数者による富の寡占化と多数者の支配が進んでいるようです。 一方、今朝近くの緑に囲まれた小さな公園を歩くと、小鳥たちがさえずり、保育園児たちが保育士さんの声がけ体操を 全身心で 笑顔いっぱいに楽しんでいます!太陽に愛され、オゾン層に守られ、地球環境に育まれ、親と社会に愛育されている生命のはじけるような喜びが、宇宙にまで輝きわたっているかのようです!宇宙も喜んでいるようです、あたかもこれこそ宇宙の存在理由だと言わんばかりに! にもかかわらず、人間社会は混迷の度を深めています。その根底にあるのは、個人のエゴ、集団のエゴ、国家のエゴなど、エゴとエゴの衝突ではないでしょうか。 人間の幸福のために発達してきた科学ですが、一方で混迷を助長している面も見受けられます。また、現代の哲学・宗教が、混迷を緩和する力を発揮できているかと言えば、甚だ疑問です。科学と哲学・宗教が手を携えて混迷を緩和する道を見出し、共に人間社会に働きかける必要があると痛感しています。 私見ですが、原子爆弾投下のような甚大な災難にあいながらも他者を恨まず 前を向いて 日々新たに今を生ききっている、日本人の根底にある縄文以来1万年の精神生活が言語化された『正法眼蔵』は、現代科学と最も親和性の高い宗教書・哲学書ではないかと考えています。例えば、 私とは何か?(脳科学:一切は脳内現象であり、 私という実体はない ) 苦しみとは何か?(医学:緩和ケアー) 物質とは何か?(量子力学:人間の精神作用が物質の現れ方に影響を与える) 宇宙とは何か?(宇宙論:宇宙は多次元だ) 存在とは何か?時間とは何か?(ハイデッガーの『存在と時間』) 人間の実存とは何か?(サルトルの実存主義哲学) 社会とは何か?(レヴィ・ストロースの構造主義) これらの問いの一つ一つを現代科学