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正3-13-6『第三仏性』十三段その6〔たとえ仏法の片鱗を学び得たとしても、すでに心の用い方が錯アヤまっている〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

いはんや、雲居ウンゴ高祖いはく、「たとひ仏法辺事ブッポウヘンジを学得する、はやくこれ錯用心了也シャクヨウジンリョウヤ」。


しかあれば、半枚学仏法辺事ハンマイガクブッポウヘンジひさしくあやまりきたること、日深月深ニッシンガッシンなりといへども、これ這皮袋シャヒタイに撞入トウニュウする狗子クシなるべし。


知而故犯なりとも、有仏性なるべし。



〔抄私訳〕

・「雲居高祖いはく、『たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也』」と言う。「仏法辺事」(仏法の片鱗)ということは、偏(差別)(平等)を立てて言うときは、偏は正に及ばない意味である。場所について言うときに、都の中心と辺境の地などと言ってまったく異なるが、これはその意味合いではない。


また、「錯用心了也」(心の用い方が錯っている)とは、錯っていてよくないように思われるが、そうではない。仏法では、「将錯就錯ショウシャクジュシャク」(錯まりをもって錯に就く)といって「錯」を解脱の言葉として用いる。この「錯用心了也」は、結局、仏性を指すと理解すべきなのである。


・「半枚学仏法辺事《半枚仏法辺の事を学す》ひさしくあやまりきたること、日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。」とある。


「半枚」の言葉は、足らないのではなく、また多い少ないの意味でもない。「仏法辺事」「半枚学仏法」とは、仏性がこの上なく無辺際であるという意味である。


「日深月深なり」とは、積功累徳シャックルイトク(仏道修行に専念し功徳を積むこと)の意味合いである。この道理によって、結びの句に、「知而故犯なりとも、有仏性なるべし」と言うのである。


〔聞書私訳〕

/雲居の「錯用心」は「故犯」(ことさらに犯す)である。 

あやまり(錯)とは、先の段の「この這皮袋に撞入する狗子」を指す。「狗子」は仏性であるというほどのあやまりである。


「狗子は仏性なり」の道理を明らかにした「知而故犯」(知りながらことさらに犯す)であるから、「有仏性なるべし」と言うのである。「仏法辺事」の「学得」は、「知而」にあたる。「錯用心了也」は、「故犯」にあたる。第九段の「謗はすなはちなきにあらず」というほどの「故犯」なのである。


/「半枚仏法辺の事を学す、ひさしくあやまりきたること」とは、あやまりではない。「半枚」と言えば、全枚があり及ばないところを半と言うのではない。だから、「これ皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし」と言うのである。


/もっとも、「半枚」という半の字に、その理由が無いわけではない。「錯用心」という方と、「知而故犯なりとも有仏性なるべし」という方とを分けて、「半枚」と使うのである。                            

「脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す」という言葉を述べられるときに、「しかもかくの如くなりと云へども未だのがれずといふことなかれ」と言うのである。


「覆蔵」しても「脱体の行履」は逃れないというのである。それをここでも釈し下して、「半枚」と言うのである。「脱体」の方、「覆蔵」の方、それぞれ「半枚学仏法」なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

まして、雲居高祖は言う、「たとえ仏法の片鱗を学び得たとしても、すでに心の用い方が錯アヤまっている」。

(いはんや、雲居高祖いはく、「たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也」。)

〔真意は、もし仏法の片鱗を学び得れば、すでに解脱であり仏性であるというのである。

道元禅師は、「将錯就錯」と言われる。仏説の如く、四諦、十二因縁、六波羅蜜・・・と錯るのでなければ、仏法にならない。錯った時はじめて解脱する、一切の妄想を離れるのは、仏法に錯った時である。だからどうしても将錯就錯しなければならないのである。〕


そうであるから、仏法の片鱗を学び、難行苦行、積功累徳シャックルイトクと長い年月にわたって錯って来たとしても、仏性というこの皮袋に入った狗子なのである。

(しかあれば、半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること、日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。)


知っていながらことさらに罪を犯して犬になったとしても、犬は有仏性なのである。

(知而故犯なりとも、有仏性なるべし。)

〔これは、有仏性と狗子仏性と二つないことを言われるのである。〕



                       合掌


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