〔『正法眼蔵』本文〕
趙州いはく、「為他知而故犯イタチニコポン《他、知りて故コトサらに犯オカすが為タメなり》」。
この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布ルフせりといへども、いまは趙州の道得ドウトクなり。
いふところは、しりてことさらをかす、となり。
この道得は、疑著ギヂャクせざらん、すくなかるべし。
いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得フヨウトクなり。
〔抄私訳〕
・「趙州いはく、他、知りて故に犯すが為なり」と言う。知りながら犯すのは殊にその咎トガは重いが、今の「知而故犯チニコポン」はこのたぐいではなく、「為他知而故犯」を狗子について理解しなければならない。知りながら犯すのであるから、狗子に成ったと理解することができよう。
ただ、「為他」も仏性、「知」も仏性、「故犯」も仏性であると理解したからには、この言葉に迷ってはならない。これを指して、「この道得は、疑著せざらんすくなかるべし」と書かれたのである。一般に人が思っている偏った見解を指すのである。
・「いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり」と言う。「入」という言葉は、能所(主客)を立て、これがあれに入ると理解するが、この「入」は狗子を「入」と使い、仏性を「入」と説くのである。「この皮袋」もまた「入」であるから、この「入」は「不用得」(使う必要がない)の「入」である。
『涅槃経』にある、「不断煩悩而入涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃に入る)という文を、籠蘊居士ロウウンコジ(在家仏道修行者)は、「入之一字も不用得なり」と理解した。「不断煩悩」の「当体」が、そのまま「而入涅槃」であるから、これは「入」「不入」に関わらない道理なのである。
〔聞書私訳〕
/「趙州いはく、『他、知りて故に犯すが為なり』」と言う。「知而」 であるから「犯」が出てくる。だから、「犯」は「知」である。もし「知」であるなら、また、「犯」も世間で言う犯すことではない。
「錯」というのも「将錯就錯ショウシャクジュシャク」(錯まりをもって錯まりにつく)ほどの錯まりであり、謗ボウというのも、「衆生に仏性有りと説く、また仏法僧を謗ずるなり」ほどの「犯」であるから、犯すとは言えない。
「知而故犯」は、例えば、仏は仏であるというほどのことである。「故犯」が出てくることは、「既に有ならば、甚麼としてか却この皮袋に撞入するぞ」という言葉が、「知而故犯」であるのである。
「知而故犯」でない仏性の言葉はない。「三界唯一心サンガイユイッシン」(三つの迷いの世界はただ一心である)も「諸法実相」(あらゆるものは真実の姿である)も「知而故犯」である。「知而故犯」は得失のたぐいではなく、仏であるから仏であると言うようなことである。「知而故犯」は、『現成公案』第五段の「悟に大迷なり」(悟りの中で迷う)というほどの意味である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
趙州は言う、「彼が、知っていながらことさらに罪を犯すためである」。
(趙州いはく、「他、知りてことさらに犯すが為なり」。)
この言葉は、世俗の言葉として、永く世の中に広まっているといっても、これは趙州が仏法の道理を説き尽した言葉なのである。
(この語は、世俗の言語として、ひさしく途中に流布ルフせりといへども、いまは趙州の道得ドウトクなり。)
言うところは、「知っていながらことさらに罪を犯す」というのである。
(いふところは、しりてことさらおかす、となり。)
〔一切皆空と知っていながら〈知而〉、花は紅となり、柳は緑となっている〈故犯〉のである。故犯とは、道元禅師はこれを仏の境地と見られる。本来成仏であるけれど、修行するというのは、「故らに犯す」ことである。本来成仏であるけれども、この世は夢の世とちゃんと知って〈知而〉、泣く時は泣き、笑う時は笑うといい、めでたい時は笑うといい〈故犯〉。〕
この言葉は、疑わない人は少ないであろう。(この道得は、疑著せざらんすくなかるべし。)
「この皮袋に撞入する」の「入」の一字が明らめにくくても、尽天尽地仏性という時は、「入る」ということは余計なのである。
(いま一字の入あきらめがたしといへども、入の一字も不用得なり。)
〔出入は凡夫が付けた符牒である。入りもせず出もせず、すべてはみな如是である。〕
合掌
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