〔『正法眼蔵』本文〕
僧いはく、「既有キウ、為甚麽却撞入這皮袋イジンモキャクトウニュウシャヒタイ《既に有ウならば、甚麽ナニとしてか却マタこの皮袋ヒタイに撞入トウニュウする》」。
この僧の道得ドウトクは、今有コンウなるか、古有コウなるか、既有なるかと問取モンシュするに、
既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。
既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。
撞入這皮袋トウニュウシャヒタイの行履アンリ、いたづらに蹉過サカの功夫クフウあらず。
〔抄私訳〕
・「僧いはく、既に有ならば、甚麽としてか却這の皮袋に撞入する」と言う。
この言葉を一般に理解する仕方は、既に狗子に仏性が有るのであれば、どうして業力の結果としてもたらされるみっともない「這」の「皮袋」に「撞入」するのかと疑っているように思われるが、そうではない。
そのわけは、この有は「今有」(今有るもの)ではなく、「古有」(古くから有るもの)ではなく、「既有」(既に有るもの)であるから「孤明」〈明歴々露堂々〉である、と釈されるからには、普通の有無相対の有ではないから、世間並みに疑うのは当たらないのである。
「既有」の有の道理は、「撞入すべきか、撞入すべからざるか」と、よく考えてみるべきである。
この道理が、「撞入す」とも「撞入せず」とも言われるのであるから、「這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず」と言われるのである。
〔聞書私訳〕
/第六段の六祖と行昌の問答で、「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性によりてなり」と言って仏性を表し、
「常凡聖ならん仏性なるべからず」(常に凡・聖であるのは仏性ではない)と言うように、「既有は孤明なり」と「有」に「孤明」という言葉をつけたから仏性なのである。
/第八段の斉安国師の段で、「有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」(有心者は皆衆生であり、心は衆生であるから。無心者も同じく衆生である、衆生は心であるから。そうであれば、心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性である。草木国土は心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である)とも言う。
「孤明」〈明歴々露堂々〉という言葉に理解を合わすべきである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
僧が言った、「既に仏性が有るならば、なぜ犬の腹に入って犬などになるのですか」。
(僧いはく、「既有、為甚麽却撞入這皮袋《既に有ならば、甚麽としてか却この皮袋に撞入する》」。)
〔犬の腹に仏性があるなどとは、もったいないことではありませんか、というように聞こえる。〕
この僧が既有と言うのは、今有(今始めて有るもの)か、それとも古有(古くから有るもの)か、或いは今有と言わずにただ既有(とっくに有るもの)と言うか、どこを問うたのか。
(この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、)
既有は一切諸法の有に似ているのをなぜ既有と言うのか。既有とはとっくに仏性であるから、既有とは仏性の独立であり仏性が明歴々露堂々(明らかにあらわれていて少しも覆い隠すところがないこと)なのである。
(既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。)
すでに仏性が有るならば、犬の体に入るべきか、入らざるべきか。
(既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。)
〔すべてが仏性の孤明であるなら、入るというのは余計だ。ただ、解脱したという時、入るという道理は必ずある。仏性は遍くあるけれども、合点した時が撞入、迷った時は撞出だ。これによって分別を払い、どちらにも行けないようにするのだ。〕
この皮袋に撞入すると言うこの僧の脚下アシモトを、見誤ってはならないのである。
(撞入這皮袋の行履、いたずらに蹉過の功夫あらず。)
〔撞入と言ったからといって、仏性が他所にいて、入出すると思ったら、大間違いだ。撞入も仏性、皮袋も仏性だから、ここを誤るな。ただ「狗子とは犬なり」と合点せよというほどの意である。〕
合掌
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