〔『正法眼蔵』本文〕
張公喫酒、李公酔チョウコウキッシュリコウスイ《張公酒を喫すれば、李公酔ふ》といふことなかれ。
もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。
すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。
〔抄私訳〕
・「張公喫酒、李公酔」とは、張さんが酒を喫ノめば、張さんが酒に酔うはずだが、しかし、張さんが酒を飲めば、傍らにいる李さんが酔うなどということはまったく理解できず、ありえないことである。「仏性」であれば「仏性」であり、「衆生」であれば「衆生」である。それなのに、「衆生」と「無仏性」を重ねたところを、「張公喫酒、李公酔」と言うのである。
〔聞書私訳〕
/この、「ならむ」という言葉は、中に「か」の字を一つ加えて、「なからむ」とあるべきである《或る本には「なからむ」とある》が、特に「ならむ」と受け止めたのである。後ろに「仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり」とあるときに、有無の言葉をおかないのは、「仏性」と「衆生」をはっきり分けて、同じ程度におくからである。「仏性ならん」とあるのはとりわけ当たっており、「仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり」という言葉に合うのである。「具足せるにあらず」という言葉も、そういうわけで出て来るのである。
また、「張公喫酒、李公酔といふことなかれ」というのもこの意である《両人と思われ、仏性と衆生とは異なるから「なかれ」とある》。だから、「おのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。」と言うのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
張さんという仏性が酒を飲めば、李さんという衆生が酔う、と言ってはならない。(張公喫酒、李公酔《張公酒を喫すれば、李公酔ふ》といふことなかれ。)〔張さんが酒を飲めば張さんが酔う、李さんが酒を飲めば李さんが酔う、でなくてはならない。これは、「仏性これ仏性」「衆生これ衆生」の道理を言うのである。〕
もし自然に仏性があるのでああれば、決して衆生ではない。(もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。)
すでに衆生であれば、最後まで仏性ではないのである。(すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。)〔だから、仏性は仏性、衆生は衆生で、衆生は無仏性である。〕
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿