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正3-9-3①『第三仏性』第九段その3①〔もし一切衆生だけに仏性があるというなら、それは悪魔の仲間だ〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

さらに摸索モサクすべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。


もし仏性あるは、これ魔党なるべし。


魔子マシ一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。


仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。


衆生もとより仏性を具足せるにあらず。


たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。



〔抄私訳〕

・また、「一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔党なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす」と言う。これは、「一切衆生」であるなら、ただ「一切衆生」であり、決して「仏性」と言ってはならない。また、「仏性」であるならただ「仏性」であり、決して「一切衆生」と言ってはならない、というのである。「一切衆生無仏性」と「一切衆生」に「仏性」の言葉を重ねて言うところを、このように釈されるのである。


本当に、「一切衆生」と言う時に、「仏性」はまったく必要ない。また、「仏性」と言う時に、「一切衆生」の言葉は必要ない。ここを「魔党」とも、或いは「魔子一枚を重ねんとす」とも言うのである。


だからといって、この言葉が本当に「魔党」になるのではない。第八段の塩官の段では、「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに」とある。また、「心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり」などと入り違えて釈されるのである。


今の大潙の段では、「一切衆生」であれば「一切衆生」、「仏性」であれば「仏性」というように、一通りを表そうという意趣である。各段の意趣えの替わり目はこれである。この道理が落ち着くところは、「仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる」と決着されるのである。


〔聞書私訳〕

/「一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん」とは、「一切衆生」の全体が「仏性」であるから、仏性が有るとか無いとか言うには及ばないということである。「仏性は仏性である」、「衆生は衆生である」と言うときこそ、仏性が親密である道理である。


/「魔子一枚」を重ねると言い、「一切衆生無仏性」だ、「一切衆生有仏性」だと言う。

これを悪く理解すれば、「衆生」に「仏性」が有る、或いは無いというようにも

受け取れるところを、「一切衆生何としてか仏性ならん、仏性あらん」と言い、

「仏性あるは、これ魔党なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねむとす」

と言う。あってはならないことを言い出すので、「魔子一枚」を重ねるのだと言う

理解される。


ただ、仏性と説くからには、魔子を重ねると言っても、余分なものとなって物が

重なるわけではない。「亦謗仏法僧」という「謗」ほどの言葉である。

第十段で「因果を使得し、福智自由なり」と言っても、「自由なり」と使うからには、仏性の方からは、「魔子一枚」も

嫌う言葉となるわけではないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

さらに模索すべきである、一切衆生だけがどうして仏性であるのか、どうして一切衆生だけに仏性があるのか。(さらに摸索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。)〔すべて仏性だから、我が家には仏性などという閑家具はない。〕  

                        

もし一切衆生だけに仏性があるというなら、それは悪魔の仲間だ。(もし仏性あるは、これ魔党なるべし。)


悪魔一枚を持って来て、一切衆生に重ねようとするようなものだ。(魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。)


仏性は仏性であるから、衆生は衆生なのである。(仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。)                             

衆生は元来仏性を具えているのではない。(衆生もとより仏性を具足せるにあらず。)


たとえ仏性を具えようと求めても、仏性は初めて来るものではないというのが根本の趣旨である。(たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。)


                             合掌


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