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正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕


「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩る様子から学ぶべきである。(眼見目覩ガンケンモクにならふべし。)」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか?



私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。


実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。


ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。


物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。


しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。


これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思っていた自分も、その驕り高ぶる心も無いことが、はっきりするのです。〈汝、仏性を見んと欲はば、先す須らく我慢を除くべし。


実に、私たちは自分の眼以外で物を見たことがないのですね。木が見える、山が見える、川が見える、空が見える、鳥が見える、猫が見える、机が見える、みんなその時の自分の様子です。自分の眼が見るから、世界はこのように無限に変化しているのです、一つ一つがはっきりとして、輝いているのです・・・




と、

「カアカア!」

自分もなく、耳もなく、カアカアの様子が聞こえます。これが実物の今の自分の様子です。

「ピーポーピーポー!」

自分もなく、耳もなく、ピーポーピーポーの様子が聞こえます。これが実物の今の自分の様子です。

「ホーホケキョ!」

自分もなく、耳もなく、ホーホケキョの様子が聞こえます。これが今の自分の様子です。。


音が聞こえる時、耳は出てきません。音の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの音と今の音がダブルになることはありません。耳は聞くものと聞かれるものの区別なく、音!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。耳は自分が聞くとも思わず、人間の分別心はまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。耳のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。


しかし、聞いた音を後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ問題が起こるのです。耳には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、耳は解脱しています


私たちは、不思議だが素晴らしい眼や耳の働きを生まれながらにして与えられているのです。その働きを自覚的に活用して生きていけば、見える景色が変わります、聞こえる世界が変わります。だから道元禅師は、「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩る様子から学ぶべきである。(眼見目覩ガンケンモクにならふべし。)」と言われるのです。私は、「耳が聞く様子からも学ぶべき」と付け加えたいと思いますが。


                     合掌


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