スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-7-4②『第三仏性』第七段その4②〔聴教だけ、参禅だけということは、仏道にはない〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

前後の粥飯頭シュクハントウみるにあやしまず、あらためなおさず。


又、画することうべからざらん法は、すべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。 


しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。      


おほよそ仏性は、いまの慮知念覚リョチネンガクならんと見解ケンゲすることさめざるによりて、有仏性の道ドウにも、無仏性の道にも、通達の端タンを失せるがごとくなり。


道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠ソタイは廃せるによりてなり。


諸方の粥飯頭シュクハントウ、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。


あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲ウンノウはいふべからず。


かくのごとくのやからは、真箇シンコ是れ畜生なり。


なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。


聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。


いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。



〔抄私訳〕

・また、「しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり」と言う。これは、身の現れが円月の相であるのを描いたことが、まだないと言うのである。それ以下はまた文の通りである。


・「聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず」とは、教家(語句によって教義を説く宗派)では仏性を言うが、禅門では言ってはならないなどと言う連中があるか、ということである。


仏法は一つの法であり、教家・禅家の区別はないのである。仏が在世の時も、決して教家だ禅家だと分けられたことはない。初祖がシナに渡られて、面壁九年して坐禅されたのを壁観婆羅門ヘキカンバラモンと名づけ、また坐禅の禅の一字を呼び出して禅宗と号した。しかし、これは人の師の言葉であり、適切でない。従って、「聴教・参禅といふこと、仏道にはなし」と斥けられるのである。


〔聞書私訳〕

/「仏道に参禅ということなし」とは、参禅学道などと常に言うこの言葉がないというのではない。「聴教」と「参禅」を、二つ立てて言うことは、「仏道にはない」と諌められるのである。近頃の禅師の多くが言うことであるが、用いてはならないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

代々の住職はその身現円月相の画を見てもおかいしいと思わず、修復しなかった。(前後の粥飯頭シュクハントウみるにあやしまず、あらためなおさず。)


また、描くことができないものなら、全く描かないのがいい。(又、画することうべからざらん法は、すべて画せざるべし。)


描くことができるものなら、真実を正しく描くべきである。(画すべくは端直に画すべし。)


そうであるのに、身の現れが円月の相であることを、描いた者は今までになかったのである。(しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。)


そもそも、仏性は、今の精神作用であろうと考えることから覚めないから、有仏性の言葉にも、無仏性の言葉にも、通じる手がかりを失ってしまったようである。(おほよそ仏性は、いまの慮知念覚リョチネンガクならんと見解ケンゲすることさめざるによりて、有仏性の道ドウにも、無仏性の道にも、通達の端タンを失せるがごとくなり。)


仏性を何とかして言い表そうと学ぶ人もまれである。(道取すべきと学習するもまれなり。)


知るといい、このような疎遠と怠慢は、仏道に励む気持ちが廃スタれてしまっているからである。(しるべし、この疎怠ソタイは廃せるによりてなり。)


諸方の住職の中には、まったく仏性という言葉を、一生言わずに終わってしまった者もいるのである。(諸方の粥飯頭シュクハントウ、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。)


ある者は、「聴教(経典の教えを聞く)の連中は仏性を言うが、参禅(禅に参ずる)の禅僧は言ってはならない」と言う。(あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲ウンノウはいふべからず。)


このような連中は、本当に畜生である。(かくのごとくのやからは、真箇シンコ是れ畜生なり。)


何という魔の仲間が、わが仏道の中に紛れ込んで汚そうとするのか。(なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。)


聴教だけということが仏道にあるか、参禅だけということが仏道にあるか。(聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。)


聴教だけ、参禅だけということは、まだ仏道にはなかったと知るべきである。(いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。)

 

                  合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕

「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩 ミ る様子から学ぶべきである。 (眼見目覩 ガンケンモク ト にならふべし。) 」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか? 私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。 実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。 ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。 物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。 しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。 これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村