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正3-7-3⑤『第三仏性』第七段その3⑤〔本物の身の現れに出会っているのに、画に描いた餅を珍重してはならない〕

 


〔『正法眼蔵』本文〕

もし身現円月相は一輪相なりと会取エシュせば、真箇シンコの画餅ガビョウ一枚なり。


弄他ロウタせん、笑也笑殺人ショヤショウサツジンなるべし。


かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇イッコも、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道ドウを通ぜずみざること。


いはんや身現に親切ならんや。


円月にくらし、満月を虧闕キケツせり。


これ稽古ケイコのおろそかなるなり。


慕古モコいたらざるなり。


古仏新仏、さらに真箇の身現にあうて、画餅を賞翫ショウガンすることなかれ。



〔『正法眼蔵』私訳〕

もし身に円月の相を現すのは一つの輪相であると理解するなら、まことの画に描いた餅一枚である。(もし身現円月相は一輪相なりと会取エシュせば、真箇シンコの画餅ガビョウ一枚なり)。


そのようなものをもてあそんで喜んでいるとは、笑止千万である。(弄他ロウタせん、笑也笑殺人ショヤショウサツジンなるべし。)


悲しむべきである、大宋国全土の在家者も出家者もだれ一人として、龍樹の言葉を正しく聞かず正しく知らず、提婆の言葉に通じず理解しないことを。(かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇イッコも、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道ドウを通ぜずみざること。)


ましてや、身の現れを親しく体得することなどどうしてありえよう。(いはんや身現に親切ならんや。)


円月に暗く、折角の満月を欠いて半月にしてしまっているのである。(円月にくらし、満月を虧闕キケツせり。)


これは、古イニシエの例に学ぶことを疎かにしているからである。(これ稽古ケイコのおろそかなるなり。)


古を慕う気持ちが足りないからである。(慕古モコいたらざるなり。)


新旧の仏道修行者たちよ、まことの身の現れに出会っているのに、決して画に描いた餅を珍重しもてはやすようなことをしてはならない。(古仏新仏、さらに真箇の身現にあうて、画餅を賞翫ショウガンすることなかれ。)


                  合掌


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