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正3-7-1②『第三仏性』第七段その1②〔真実の説法は決まった形は無い〕

〔『正法眼蔵』本文〕      

 於彼衆中、有長者子迦那提婆、謂衆会曰、「識此相否」。

《彼の衆の中に、長者子チョウジャシ伽那提婆カナダイバ有り、衆会に謂って曰く、「この相を識るや否や」。》 


衆会曰、「而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所在」。

《衆会曰く、「而今イマ我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し」。》


提婆曰、「此是尊者、現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以て相三昧形如満月。仏性之義、廓然虚明」。

《提婆曰く、「これは是れ尊者、仏性の相を現じて、以って我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋ケダし、無相三昧ムソウザンマイ は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然カクネンとして虚明コメイなり」。》


言訖輪相即隠。復居本坐、而説偈言、「身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯ヨウベン非声色ヒショウシキ」。

《言ひ訖オワるに、輪相即ち隠る。また本坐に居して、偈ゲを説いて言イハく、「身に円月相を現じ、以て諸仏体を表す、説法其の形無し、用辯は声色に非ず」。》


しるべし、真箇の「用弁」は「声色」の即現にあらず、真箇の「説法」は「無其形ムゴギョウ」なり。


尊者かつてひろく仏性を為説イセツする、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙リャッコするなり。



〔抄私訳〕

・龍樹の段は、文の通りである。


・「しるべし、真箇の用弁は声色の即現にあらず。真箇の説法は無其形なり」〈知るといい、真実の弁じること(用弁)は声や形の現れではない。真実の説法は決まった形は無いのである)と言う。


一般には、「説法」は身口意シンクウイの三業サンゴウのうちの口業クゴウのはたらきである。「説法」はまた、上代の聖人が下位の人たちに恩恵を授ける姿である。そうであるから、いかにも「用弁」も決まった形があるはずである。


しかし、この文は一般の理解と違い、真実の「説法」は、必ず「用弁」〈弁じること〉があるというものではない。草木山河等の無情のものも説法しており、どうして「説法」の道理に背くことがあろうか。だから、「決まった形は無い」ということに驚いてはならない。


・「尊者かつて広く仏性を為説イセツする、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙するなり」尊者がかつて広く仏性を人々に説かれたことは、数えられないほどである。ここではひとまずその一端を簡略に示すのである)と言う。


実に、龍樹の一代は、「仏性を為説」なさったことはその通りであろう、千部の論師ロンジであったのだから。広大な「為説」は、疑うべきではない。「一遇を略挙する」とは、上に載せる言葉を指すのである。


〔聞書私訳〕

/偈に曰く、「身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯非声色」(身に円月相を現じ、以て諸仏体を表す、説法は其の形無し、用弁は声色に非ず)と。


「身現円月相」は、後で詳しく注釈する。

以表諸仏体」とは解脱を言う。超脱する意味である。

「説法無其形」の無は世間で言う無ではない。「真箇の説法」はただ「無其形なり」と言うのである。


法身仏・報身仏・応身仏と立てる時、「法身仏は説法するのか」と尋ねることがある。或いは、「説法する」と言う。このことを言うときは、法身に報身と応身を具え、法身・報身・応身を互いに具える仏となるのである。だから「説法する」と言うのである。


/《また、説法しないというときは、》すでに「法界に周遍すること、虚空の如し」(世界に遍く行き渡ることが、虚空のようである)などと言い、一体何が説法するのかというのである。この意味は、この「無其形」(決まった形は無い)に似ているが、ここでは、すでに説法をそのまま「無其形」と言うので、それとは異なるのである。


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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