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正3-4-3③『第三仏性』第四段その3③〔無仏性に何という標準がある〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。


黄梅に見聞し、趙州ジョウシュウに流通ルヅウし、大潙ダイイに挙揚コヨウす。


無仏性の道、かならず精進すべし、趦趄シショすることなかれ。


無仏性たどりぬべしといへども、何ガなる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣ジキシュなり。


〔抄私訳〕

・実際、「無仏性」の言葉は、四祖の室より出たのである。その後、「無仏性」の言葉を、「趙州」「大潙」等が世に広められた。だから「黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に挙揚す」と解釈されるのである。「趦趄することなかれ」とは、懈怠ケタイせず、怠るなという言葉である。


・「無仏性たどりぬべしといへども、何ガなる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり」と。確かに「無仏性」という言葉は、しばらくとまどうかもしれないが、「何ガ」も尽法界であり、「汝」も辺際が無く、「是」も仏性であるからには、どうして「無仏性」の無が広く隅々まで行き渡ら(周)ないことがあるだろうか。この「無仏性」の無は、仏性に直に通じているということである。


〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるから、無仏性の道理は、はるか遠い四祖の室内から世に知られたものである。それが五祖に伝わり、趙州ジョウシュウに伝わり、大潙ダイイに伝わったのである。(しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅に見聞し、趙州ジョウシュウに流通ルヅウし、大潙ダイイに挙揚コヨウす。)


この無仏性の言葉は、必ず精進すべきである、怠ってはならない。(無仏性の道、かならず精進すべし、趦趄シショすることなかれ。)


無仏性と聞いて、とまどうかもしれないが、無仏性に何ガという標準〈よりどころとなる目安〉があり、汝という時節があり、是という投機〈師と弟子の機が合すること〉があり、周〈周遍法界即ち仏性〉という同時の生があり、無仏性は仏性に直に通じているのである。(無仏性たどりぬべしといへども、何ガなる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣ジキシュなり。)


〔無仏性の道理は、四祖が五祖に「汝何姓」と問うたことから、「何ガ」が標準となって出てきたことから、「何ガなる標準あり」と。

汝とは一切衆生であり、これが無仏性を意味しているから、「汝なる時節あり」と。

四祖は是何姓と言い五祖は是仏性と言われたから、この是は無仏性である。

このように師と弟子の機がよく合するから、「是なる投機あり」と。

周は五祖の俗姓だが、仏法では周遍法界という意味なので無仏性であり、無仏性である周は無と同時の生だから、「周なる同生あり」と。

このように無仏性は仏性に直に通じているから、「直趣なり」と。〕


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