〔『正法眼蔵』本文〕 しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。 六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、ひさしく再三撈摝 ロウラク すべし、まさに撈波子 ロウボス に力量あるべきなり。 六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しづかに拈放 ネンポウ すべし。 おろかなるやからおもはくは、人間には質礙 セツゲ すれば南北あれども、仏性は虚融 コユウ にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度 スイタク するは、無分の愚蒙 グモウ なるべし。この邪礙 ジャゲ を抛却 ホウキャク して、直須 ジキシュ 勤学 ゴンガク すべし。 〔抄私訳〕 ・「諸無の無は、無仏性の無に学すべし」 (仏法でいういろいろな無は、無仏性の無から学ぶべきだ ) とある。いかにもその通りである。ただ無と聞くと、有無を凡夫の見方でばかり心得るが、無と説くとすれば、その言葉は、「無仏性の無」のように学ぶべきだということである。 ・「撈波子 ロウボス 」 (竹であんだ魚を捕る道具) とは、ただ熱心に骨折って仕事をするありさまの言葉である。 ・「おろかなるやからおもはくは」といって出される見解は、特に子細は無い。文の通り凡夫の誤った考えを挙げられるのである。 〔聞書私訳〕 /「人に南北有り、仏性に南北無し」という「人」と、「仏性」と、「南北」と「有無」は同じ道理であり、皆「仏性」である。 /人も「仏性」、有も 「仏性」 、南も 「仏性」 、北も 「仏性」 、無も 「仏性」 である。「人は作仏すとも仏性は作仏すべからず」とは、「作仏すべし」 (仏になれる) 、また「作仏すべからず」 (仏になれない) というのも、同じ意味である。「人」も「仏性」も「作仏」も、それぞれ別の法 (もの) ではないから、「仏性は作仏すべからず」と言うのである。 人を認めて「作仏」させることは、上に「人に南北有り、仏性に南北無し」と言った時にその通りで、「人は作仏すとも、仏性は作仏すべからず」と言うのである。「人」も「仏性」も「有無」も「南北」も、つまるところ「仏性」の一面・両面なのである。 /煩悩を断じて菩提を証する、煩悩を断じないで菩提に入る、煩悩も断じず涅槃にも入らないと説くのはこの意である。 /「無々の無」のことは、有を無とし、無を有と言おうというのではない。有と