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正3-5-3②『第三仏性』第五段その3②〔釈迦仏の悉有の有が、どうして四祖五祖の無仏性の無から法を嗣ツがないことがあろうか〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

 四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに罣礙ケイゲの力量ある一隅をうけて、迦葉カショウ仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。

悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法シホウせざらん。

しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。          

このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。           

「有無の無はしばらくおく、いかならんか仏性」と問取すべし、「なにものかこれ仏性」とたづぬべし。

いまの人も、仏性とききぬれば、「いかなるかこれ仏性」と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒ソウソツなり。


〔抄私訳〕

・また、「四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに罣礙ケイゲの力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり」(四祖五祖が言った無仏性の言葉は、遠く古今の真実を言い尽くす力量がある一面を受けて、迦葉仏や釈迦牟尼仏などの諸仏は、仏になり説法するときに、「悉有は仏性である」と言い表わす力量があるのである)と言う。このお言葉はどう考えても逆と思われる。


そのわけは、迦葉仏や釈迦牟尼仏の説示を受けて、順々に代々の祖師等も法を伝えられるのであるから、「四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに罣礙ケイゲの力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取す」ということは、どう考えても理解できない。


そうであるが、仏祖の皮肉骨髄(全身)が通じるこの言葉は今更驚くべきではない。迦葉・釈尊・仏祖等の皮肉骨髄は、決して勝劣や前後が有るはずがないから、この道理が現前するのであると心得るべきである。


・また、「悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん」と言う。「悉有の有」を、このように説けば、「なんぞ無の道理に嗣法せざらん」ということである。


・また、「このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり」とある。


・これは、六祖の「有無の無はしばらくおく、いかならんか仏性と問取すべし、何物かこれ仏性と尋ぬべし」「有無の無はしばらく置くとして、仏性とは何かと問うべきであり、「何が仏性なのか」と尋ねるべきであるとある。これは、六祖に代わって、道元禅師がその時、どうしてこのように尋ねなかったのかということである。


しかしこれも、六祖の言葉が及ばないから、このように釈されるのではない。同様の道理の一筋を説き示されるのである。


・「いまの人も、仏性とききぬれば、いかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし」と言う。本当に、仏性と言っても、ただ有無などのことをあれこれ論ずるが、仏性はそもそもどのようなものかということを論じることがないから、「倉卒なり」〈いい加減なことだ〉と斥けられるのである。


〔聞書私訳〕

/「無々の無」のことは、有を無とし、無を有と言おうというのではない。有と無の意味は同じと言うために「なんぞ無無の無に嗣法せざらん」と言うのである。


/「有無の無はしばらくおく、如何ならんか是仏性」 と言うこの問は、そのまま無を仏性と説く意である。「如何ならんか」とは、第四段の「何姓」〈何ガという姓=仏性〉というほどのことである。


/第二段の「還我仏性来」(我に仏性を還し来たれ)の意味合いであり、無の字を明らかにする道理である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

四祖五祖が言う無仏性の言葉が、遠く古今の真実を言い尽くす力量がある一面を受けて、迦葉仏カショウブツ(釈迦仏の師匠)や釈迦牟尼仏などの諸仏は、仏になり説法するときに、「悉有仏性」(すべては仏性である)と言い表す力量があるのである。(四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに罣礙ケイゲの力量ある一隅をうけて、迦葉カショウ仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。) 


釈迦仏の悉有の有が、どうして四祖五祖の無仏性の無から法を嗣がないことがあろうか。(悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法シホウせざらん。)


そうであるから、無仏性の語は、遥かに四祖五祖の室内より聞こえてくるのである。(しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。)


「嶺南人無仏性」と言われたとき、六祖がその人〈仏法を会得した人〉であったならば、無仏性の語を功夫すべきである。(このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。)        


「有無の無はしばらく置くとして、仏性とはどんなであろうか」と問うべきであり、「何ものが仏性なのか」と尋ねるべきである。(「有無の無はしばらくおく、いかならんか仏性」と問取すべし、「なにものかこれ仏性」とたづぬべし。)〔これが無仏性の語の功夫の仕方である。〕


今の人も、仏性と聞くと、「仏性とはどのようなものか」と根本を突きつめず、いたずらに末節に渉って仏性の有無ばかりを気にしているようで、いい加減なことだ。(いまの人も、仏性とききぬれば、「いかなるかこれ仏性」と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒ソウソツなり。)


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