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正3-3-1②『第三仏性』第三段その1②〔この山河大地は、すべて海のように広大な仏性の世界である〕

〔『正法眼蔵』本文〕

しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。

皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時ショウトウ インモジ、これ山河大地なり。


〔抄私訳〕

・「皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり」〈すべて仏性に依って建立されるとは、山河大地が建立される正にその時、それが山河大地である〉とある。このように説けば、依るもの・依られるものという意味を離れているのである。


〔聞書私訳〕

/「皆依建立」〈すべて仏性に依って建立されるとは、「悉有シツウ(すべての存在)の意味合いである。『梵網経ボンモウキョ』に「仏性常住の妙果を失う」というのもこの意である。仏性の妙果などは、失くせるものではないけれども、十重禁戒(重要な十種の禁じる戒律)等の意義に暗いのを失と言うのである。だからといって、地獄・餓鬼・畜生の三悪道のように堕ちるわけでもない。ただ、失と言うのである。


/或る人が言った、「『梵網経』に、確かに『一切はみな三悪道中に失堕して二劫三劫の間父母と三宝の名を聞かない』とある。どうして堕ちると理解しないのだろうか。」と。


/答えて言った、「先ずこの失という字は、我々が日頃使う失ではない。その理由は、仏を殺すという言葉があり、坐禅の時は、坐禅すればそのまま仏であるから、仏を坐わり殺すというほどに理解すべきである。


或いは、『第一現成公案』の巻で、「諸法の仏法なる時節〈森羅万象が仏法である時節〉、迷あり悟あり仏あり衆生あり」と言っており、これらはみな、善悪や邪正があると理解しない。


『第二十四画餅ガヘイ』の巻で入仏入魔(仏に入り魔に入り)と言っているが、入仏は善で入魔は悪としないで、入仏も入魔も同じだと理解するから、この三悪道の堕在(悪い場所へ堕ち込んでそこにとどまること) も、これほどの意味に理解すべきである。


失というのも、仏性の上で使うので、堕すというのもこのように理解すべきである。仏性が堕在してしまう三悪道などという所はない。仏性が隔てる三悪道はなく、浄土と天国と穢土エド(けがれた国土)の区別はない。仏は「身土不二(仏身と仏国土は一つである)と学ぶ。


心は三界唯一心(あらゆる世界はただ一心である)と言い、心外無別法(心の外に何もない)と結ぶ。これは、ブッダガヤ(釈尊が悟った所)を離れ、その外に常寂光土(浄土)を求めると、常寂光土の外に娑婆が有るのではないと言う時、どこにも三悪道は残らないということである。


この皆依建立(皆仏性に依って建立される)、由茲ユウジ(これに由る)、悉有シツウ(すべての存在)などとと説く意味合いと、『仏性常住の妙果を失う』、『三悪道の中に堕ちる』などとはただ同じ意味合いである。」と。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるからこの山河大地は、すべて海のように広大な仏性の世界である。(しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。)


すべて仏性に依って建立されるとは、山河大地が建立される正にその時、それが山河大地である。(皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時ショウトウ インモジ、これ山河大地なり。)

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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