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正3-3-1①『第三仏性』第三段その1①〔山河大地はすべて仏性によって建立される〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

第十二祖 馬鳴尊者メミョウ ソンジャ、十三祖のために仏性海ブッショウカイをとくにいはく、


「山河大地センガダイチ皆依建立カイエ コンリュウ《山河大地、皆依って建立し》、


三昧六通ザンマイ ロクツウ由茲発現ユウジ ホツゲン《三昧六通、茲コレに由って発現す》」。



〔抄私訳〕

・この「皆依建立」〈皆仏性に依って建立される〉の言葉は、依るもの・依られるものに係わっているように思われるが、そうではなくて、仏性の上の建立である。


「三昧六通、由茲発現ユウジホツゲン禅定や六神通力も、茲れ〈仏性〉に由って発現する)の「由茲」も、仏性の上の「由茲」である。


つまり、仏性によって建立される山河大地であり、

仏性によって建立される山河大地がそのまま仏性である。


したがって、「この山河大地、みな仏性海なり」(この山河大地は、すべて海のように広大な仏性の世界である)ということを、疑ってはならない。


〔聞書私訳〕

/「皆依建立」〈すべて仏性に依って建立されるとは、第一段で「悉有は仏性なり」と言ったように、「一切衆生、悉有は皆仏性に依って建立される」と言うようなものである。


/「山河大地、皆依建立」とは、三界唯一心あらゆる世界はただこの心の現れである)・心外無別法(この心のほかに何もない)の意味合いである。


山河大地は、そのまま山河大地によって建立される。

「三昧六通サンマイロクツウ由茲発現ユウジホツゲン(禅定や六神通力も、これ〈仏性〉に由って現れ)もこの意味合いである。


/前の第二段の「時節」と「仏性」が同じであるように、「皆依」と「仏性」は同じである。


「由茲(これに由る)不由茲(これに由らない)いずれも皆依仏性(皆仏性に依る)なり」と言う。《三昧六通の姿をそのまま仏性と言う。》「三昧六通の発現」は、決して「由茲と理解してはならない。




〔『正法眼蔵』私訳〕

第十二祖馬鳴尊者メミョウ ソンジャは、第十三祖迦毘摩羅尊者カビマラソンジャのために海のように広大な仏性の世界を説いて言うには、(第十二祖 馬鳴尊者、十三祖のために仏性海をとくにいはく、)



「山河大地は、すべて仏性に依って建立され、

禅定や六神通力も、すべて仏性に由って現われる」と。(「山河大地、皆依って建立し、三昧六通、茲コレに由って発現す」。)


*注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。《 》内は聞書抄著者の補足。

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...