〔『正法眼蔵』本文〕
当観トウカンといふは、能観所観ノウカン ショカンにかかはれず、正観ショウカン 邪観ジャカン等に準ずべきにあらず、これ当観なり。
当観なるがゆへに不自観なり、不他観なり。
時節因縁聻ニイなり、超越因縁なり。
仏性聻なり、脱体仏性なり。
仏々聻なり、性々聻なり。
〔抄私訳〕
・「当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり」(当観とは、観ずるものと観ぜられるものに係わらず、正しい観方・誤った観方等に準ずべきではない、これが当観である。)とは、観ずるものと観ぜられるものを相対しての当観ではない。だから、当観は当観である。だから、「不自観なり、不他観なり」(自分が観ずるのではなく、他を観ずるのでもない)と言うのである。
・「時節因縁聻ニイ《これこれ》なり」(時節の因縁そのものである)、この道理を「超越因縁聻なり」(因縁そのものを超越しているのである)と言うのである。「仏性聻なり」(仏性そのものである)、この道理がまた「脱体仏性」(そのまま仏性)である。仏性と言えば、やはり仏と性とそれぞれ別であるようにも思われる。だから、「仏々聻なり、性々聻なり」(仏々そのものであり、性々そのものである)と、十分に説く時は言われるのである。
〔聞書私訳〕
/「時節因縁聻ニイなり」「仏性聻なり」「仏々聻なり、性々聻なり」と言うが、「超越因縁」と「脱体仏性」の言葉の次に、「聻」の字を置かないのは、何故か。それは、「時節の因縁」と「仏性」と別でもなく同じでもないから、そのままそのものをそのものと言うので、「聻」と使うのである。「超越因縁」「脱体仏性」、この二つの句の次に「聻」の字がないのは、「時節の因縁」を説く言葉であるから、「超越因縁」に「聻」の字を置かないのである。「脱体仏性」の次も、またこれと同じである。
/この「聻ニイ」の所には、とりわけ、当観聻 と言う言葉があるべきであるのに、どうしてないのかと思われるが、以前の聻の言葉は、皆「当観」を指すので、当観に聻の言葉が足らないのではないのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
当観とは、今観ミえる通りあるがままに観ずるということである。人間は何でも能所で観ずるが、当観はそうではない。正しい観方・誤った観方などの思量分別を交えるわけではなく、今観える通りあるがままに観ずる、これが当観である。(当観トウカンといふは、能観所観ノウカン ショカンにかかはれず、正観ショウカン 邪観ジャカン等に準ずべきにあらず、これ当観なり。)
当観であるから、自分が観ずるのではなく、他を観ずるのでもない。(当観なるがゆへに不自観なり、不他観なり。)
当観は、時節の因縁そのものであり、因縁を超越したものである。(時節因縁聻ニイなり、超越因縁なり。)
仏性そのものであり、そのまま仏性である。(仏性聻なり、脱体仏性なり。
仏(相)といえば仏そのものであり、性(本質)といえば性そのものである。(仏々聻なり、性々聻なり。)
合掌
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