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正3-1-1 『第三仏性』第一段その1〔一切の衆生はすべて仏そのものである〕

 〈正法眼蔵ショウボウゲンゾウ涅槃妙心ネハンミョウシン:釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と大自然のありようを、道元禅師が自覚され、それを言語化され収められた蔵。第三巻仏性ブッショウ=仏そのもの〉                                  

正3-1-1 第一段その1〔一切の衆生はすべて仏そのものである〕      

〔『正法眼蔵』本文〕                                                           

釈迦牟尼仏言シャカムニブツゴン、「一切衆生イッサイシュジョウ、悉有仏性シツウブッショウ、如来常住ニョライジョウジュウ、無有変易ムウヘンヤク」。                          これ、われらが大師釈尊の獅子吼シシクの転法輪テンポウリンなりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧チョウネイ眼晴ガンゼイなり。                    参学しきたること、すでに二千一百九十年《日本仁治辛丑カノトウシの歳に当る》正嫡ショウチャクわづかに五十代《先師天童浄和尚に至る》                    西天二十八代、代々住持しきたり、東地二十三世、世々住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。                       

〔抄私訳〕                            

・釈尊と一切の諸仏や一切の祖師の皮肉骨髄〈全体〉が通じあっているから、本当に大師釈尊の獅子吼の転法輪であるけれども、「一切諸仏・一切祖師の頂寧チョウネイ眼晴ガンゼイなり」〈どの仏もどの仏も、またどの祖師もどの祖師もこれを皮肉骨髄としているので、これは三世諸仏諸祖同一の法である〉と参じ学ぶべきである。

・「頂寧眼晴」とは、全体がそれである道理である。「獅子吼の転法輪」とは、獅子が吼える時、いろいろな畜類などは、鳴りを静めて怖れる。そのように、仏が説法される時は、いろいろな外道(仏道以外の教え)や二乗(声聞・縁覚)などは謹み恐れて勝手気ままに振る舞わない。それを「獅子吼の転法輪」と喩えるのである。


・また達磨大師は、西のインドでは二十八祖、東のシナにおいては初祖と、二度数え申し上げるのである。如浄禅師は、一度数え申し上げる時は五十世であり、二度数え申し上げる時は五十一世である。


・また、「十方の仏祖、ともに住持せり」(十方の諸仏も祖師もみな住持してきた)とは、上の「一切衆生、悉有仏性」〈一切の衆生はすべて仏である〉の言葉である。


〔聞書私訳〕

/先ず、仏法の事情としては、それぞれの宗(中心となる教義)を立てる。華厳ケゴン宗は、他の教えは皆華厳の教えを助ける法であり、方便(衆生を導くための便宜的な手段)の教えであると言い、法華ホッケ宗は、四十余年の仏の説法は、皆これは仏の本意ではなく、法華経以前の教えを爾前ニゼン(それまで)の教えと言って、これも方便であると言い、法華経こそが仏が世に出現された本懐(本来の願い)であると言う。このように言うことは、各宗で通例となっている。


今の禅宗も、「祖師西来意ソシセイライイ(仏法とは何か)、「不立文字フリュウモンジ(真の仏法は文字によらず心から心に伝えられるものである)、「直指人心ジキシニンシン見性成仏ケンショウジョウブツ(人の心そのものを直指し、自己が仏性であることを自覚することが成仏である)と言って、すべて言葉で言い、文字に書き出すようなことは、仏法ではないと学ぶ人もいる。


但し、今の話はそうであってはならない。全く言葉を用いないならば、ほかならぬ「不立文字」の言葉も、「直指人心」の言葉も使うことができない。これは、「不受の法を受けるか」と、仏が外道を追い詰められたようなものである。「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶大迦葉に付属す」と仰せられた御言葉も用いることができなくなる。まったく根拠のないことである。


三乗十二分教(一切の経典・教学)や三十七品菩提分法(悟りに達するための三十七種の修行)などというのは、主として小乗の話しであるけれども、これを一言も捨てずに、皆仏家(禅家)で用いて、諸教だ諸乗だと決して見下すことはない。今の「一切衆生、悉有仏性」の言葉も、教家で理解する様子と、仏家で説く様子は異なるけれども、どちらもこの文を引用してこそ仏性の意義を説くことができるのである。


また、この文は、釈迦一仏の御言葉であるけれども、今は「一切諸仏、一切諸祖の頂寧眼晴チョウネイガンゼイなり」と言って、釈迦一仏にも限らず、「三世諸仏の説法の儀式の如し」の意味合いである。また、必ずしも言葉だけと思ってはならない。「頂寧眼晴」であるから、「尽十方界沙門シャモンの一隻眼イッセキゲン〈十方のすべての世界は修行僧の片眼だ:心眼が宇宙と一つになった境涯〉とも、「尽十方界沙門の家常の語」(十方のすべての世界は修行僧の日常のありふれた姿がそのまま法性の現われである)とも言うほどの言葉であるから、「悉有」もこれほどのことである。


/「直指人心ジキシニンシン」という人も、つまらない凡夫の身を人と言うのではない。「尽十方界真実人体」(全世界は仏性の顕現である)の人であり、本分の人であり、本来の人なのである。「直指人心」という心も、凡夫の慮知念覚の心ではない。「三界唯心」(衆生の三種の世界はただ心である)と説くほどの心である。「直指人心、見性成仏」(人の心そのものを直指し、自己が仏性であることを自覚することが成仏である)と説くことも、よくよく善知識(人の師範となることができる僧)に学ぶべきものである。


/「一切衆生」という衆生は、螻ケラアリアブから仏まで全ての生命あるものである。衆生の方からは、仏は衆生と違うものだとして仏を隔てるが、仏の方からは衆生を隔てないのである。隔てるとは、仏に通じていないことである。「感応」などという感は衆生の機縁(素質能力と因縁)であり、応は仏の応(衆生の機縁に仏が応じること)である。教家で説く三種世間ということがある。衆生世間・五陰世間・国土世間である。衆生世間では、仏も残さないで含んでしまう。だから、「一切衆生、悉有仏性」とは、言い換えれば、「一切諸仏、悉有仏法」(一切の諸仏は、すべて仏法である)と言うようなものである。


/「法輪を転じる」とは、惑ワク(煩悩)を転じ(変え)墔砕サイハする(くだく)という意味である。転とは惑を転ずる(変える)ということである。惑は煩悩である。輪は天輪聖王テンリンジョウオウ(天下を統一して正法をもって世を治める王)の車輪が先に立って物を摧クダくことに喩える。法輪(仏の教え)が煩悩を摧くとは、このようなことである。


〔『正法眼蔵』私訳〕                                    釈尊シャクソンは言われた、「一切の衆生(生命あるもの)はすべて仏そのものである、仏そのものは常に存在し決して変わることがない」と。(釈迦牟尼仏言、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」。)    


この言葉は、我々の大師釈尊が煩悩を砕破し正法を転じる獅子吼の大説法であるけれども、阿弥陀、阿閦アシュクなど、どの仏もどの仏も、またどの祖師もどの祖師もこれを皮肉骨髄としているので、これは三世諸仏諸祖同一の法である。(これ、われらが大師釈尊の獅子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。) 


この道理に参じ学び続けて、既に二千百九十年《西暦1241年に当る》、正統な継承者は僅かに五十代《亡き師天童如浄テンドウニョジョウ和尚に至る》、(参学しきたること、すでに二千一百九十年《日本仁治辛丑の歳に当る》正嫡わづかに五十代《先師天童浄和尚に至る》)                              


西のインドにおいて摩訶迦葉から菩提達磨まで二十八代がみなこの道理を代々住持〈仏性は我れ、我れは仏性であるとしっかり保ち守ること〉し、東のシナにおいて菩提達磨から如浄まで二十三代がみなこの道理を代々住持し続けてきた。(西天二十八代、代々住持しきたり、東地二十三世、世々住持しきたる。) 


十方のどの仏もどの仏も、どの祖師もどの祖師もみなこの道理を住持し続けてきたのである。(十方の仏祖、ともに住持せり。)   

*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...