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正2-6-2『第二摩訶般若波羅蜜』第六段その2最終回〔般若波羅蜜は仏世尊だ、仏世尊は般若波羅蜜だ〕


〔『正法眼蔵』私訳〕                        

釈迦牟尼仏が仰る、

シャーリプトラ(釈尊の第一弟子)よ、このもろもろの衆生は、この般若波羅蜜多〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉において、仏が今ここにおられるように供養し(真心から供物を捧げ)礼敬ライキョウ(礼拝し敬うこと)すべきである。(釈迦牟尼仏シャカムニブツの言ノタマワく「舎利子シャリシ、是れ諸モロモロの有情ウジョウ、此の般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、仏の住したまふが如く供養クヨウし礼敬ライキョウし、思惟シユイすべし。)                       


般若波羅蜜多を考えることは、まさに仏世尊を供養し礼敬するようにすべきである。(般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵ブツバギャボンを供養し礼敬するが如くすべし。) 


それは何故か。般若波羅蜜多は仏世尊bhagavat=世の中で最も尊い人と異ならず、仏世尊は般若波羅蜜多と異ならないからである。(所以ユエは如何イカン。般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。)                        


般若波羅蜜多は、すなわち仏世尊であり、仏世尊は、すなわち般若波羅蜜多である。(般若波羅蜜多は、即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵ブツバギャボンは、即ち是れ般若波羅蜜多なり。)


それは何故か。(何を以ての故に。)                  


シャーリプトラよ、一切の如来(如実より到来した仏)や応供(供養に応ずるに足る仏)や正等覚(仏の無上の智慧)は、皆、般若波羅蜜多より出現することができるからである。(舎利子、一切の如来ニョラオウ正等覚ショウトウガクは、皆般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。)                                

シャーリプトラよ、一切の菩薩摩訶薩(勝れた菩薩)・独覚(独りで修行し十二因縁を観じて真実を覚る者)・阿羅漢(四果の最高位。一切の煩悩を断じ涅槃を得た者)・不還(第三果)・一来(第二果)・預流果(初果)等は、皆、般若波羅蜜多によって出現することができるからである。(舎利子、一切の菩薩摩訶薩ボサツマカサツ・独覚ドッカク・阿羅漢アラカン・不還フゲン  一来イチライ・預流果ヨルカ等、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。)        


シャーリプトラよ、一切世間の十善業道(十種の善業を行じること)、色界(欲望を離れた正常な物質の世界)の四段階の禅定、無色界(精神作用にのみ住む世界)の四段階の禅定、五つの神通力(五種の超人的はたらき)も、皆、般若波羅蜜多によって出現することができるからである。」と。(舎利子、一切世間の十善業道ジュゼンゴウドウ・四静慮シジョウロ・四無色定シムシキジョウ・五神通ゴジンツウ、(皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に」。)       



そうであるから、仏世尊は、般若波羅蜜多であり、般若波羅蜜多は実に諸法〈森羅万象〉である。(しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜は是諸法なり。) 


水に自性が無く、自性が無いから沸かせば湯になり、冷たければ氷になるように、あらゆるものは空相〈有るに非ず無きに非ず自性が無いすがた〉であり、不生不滅(生じず滅せず)であり、不垢不浄(垢つかず浄からず)であり、不増不減(増えず減らず)である。(この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。)             


この般若波羅蜜多が現成するのは、仏世尊が現成するのである。般若波羅蜜多に、問うといい、参ずるといい。(この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵ブツバギャボンの現成せるなり。問取すべし、参取すべし。)              


般若を供養し礼敬ライキョウする(礼拝し敬う)ことは、取りも直さず仏世尊にまみえ身心を捧げて仕えることであり仏にまみえ身心を捧げて仕える我れがそのまま仏世尊であり、我れと仏世尊と一体無二である。(供養礼敬クヨウライキュオウする、これ仏薄伽梵に奉覲承事ブゴンショウジするなり、奉覲承事の仏薄伽梵なり。)


これで正法眼蔵第二摩訶般若波羅蜜の巻を終える。(正法眼蔵摩訶般若波羅蜜第二)

         

その時、天福元年西暦1233年(道元禅師34歳)夏安居(三ヶ月の集中修行期間)の日、観音導利院に在って大衆に示す。(爾時ニジ天福元年 夏安居ゲアンゴ日在観音導利院示衆)            


西暦1244年(道元禅師45歳)、越前の吉峰寺で侍者の懐奘(永平寺二代)がこれを書写した。(寛元二年甲辰ヒノエタツ春三月二十一日 越宇エツウ吉峯精舎キッポウショウシャに侍ハベりて之を書写す 懷奘



〔『正法眼蔵』評釈〕                        

この『摩訶般若波羅蜜』の巻は『正法眼蔵』の中で最初に撰述されたものです。道元禅師の下に集まって来た修行者たちに、日々の仏道修行の根幹とするようにと、この巻を示されたのではないかと思われます。記録は残っていないようですが、毎朝の暁天キョウテン坐禅の後、回廊を渡り法堂ハットウに移り、一斉に『般若心経』を読誦されていたのではないかとも想像されます。小子も大衆と共に随喜させていただいているシーンをイメージすることがあります。


あらゆるものは、不生不滅の般若の仏智慧のはたらきです。この身も、般若の仏智慧のはたらきです。この心も、般若の仏智慧のはたらきです。このように見えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように聞こえるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように香るのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように体感があるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように思いが浮かぶのも、般若の仏智慧のはたらきです。苦しいと思うのも、般若の仏智慧のはたらきです。苦しみが滅するのも、般若の仏智慧のはたらきです。仏道修行するのも、般若の仏智慧のはたらきです。布施も、般若の仏智慧のはたらきです。戒を保つのも、般若の仏智慧のはたらきです。耐えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。精進するのも、般若の仏智慧のはたらきです。坐禅も、般若の仏智慧のはたらきです。智慧も、般若の仏智慧のはたらきです。この上なく勝れたさとりも、般若の仏智慧のはたらきです。過去現在未来の時間の観念も、般若の仏智慧のはたらきです。万物を構成する素粒子も、般若の仏智慧のはたらきです。液体も、般若の仏智慧のはたらきです。化学反応も、般若の仏智慧のはたらきです。物理作用も、般若の仏智慧のはたらきです。歩くのも、般若の仏智慧のはたらきです。留まるのも、般若の仏智慧のはたらきです。坐るのも、般若の仏智慧のはたらきです。寝るのも、般若の仏智慧のはたらきです。呼吸するのも、般若の仏智慧のはたらきです。考えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。般若の仏智慧のはたらきでないものは、一つもありません。            


私達は、あらゆるものが不生不滅の般若である真っ只中にいて、修行次第で何でもなすことができます。戒(戒をたもち)、定(禅定に親しみ)、慧(智慧が開き)、解脱(煩悩から開放されて)、解脱知見(心の安らかさを覚すること)をなすこともできます〈施設可得〉。また、この般若の中で修行していけば、預流果(修行の初歩の位)・一来果(もう一度人間に生まれて涅槃に入る位)・不還果(再び生まれ変わることのない位)・阿羅漢果(煩悩を断滅し修行を完成した位)を得ることもできます〈施設可得〉。無上正等正覚(この上なく勝れたさとり)を得ることもできます。また、仏の説法や衆生救済をなすこともできます。これらの仏行や仏果はすべてなし得ること〈施設可得〉です。


何を行じても、何の果を得てもそれは仮の名であり本来は何の名もなく、みな般若が般若を般若で行じているだけ、般若が般若を般若で得ている〈施設可得〉だけです。その時、そこに私はおらず、般若以外の何もありません。〈観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時、渾身の照見の五蘊皆空なり〉。摩訶なる般若波羅蜜の仏智慧のはたらきに感謝合掌礼拝します。


*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。

                                 合掌
                               

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