〔『正法眼蔵』本文〕
たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかあるを、 灰はのち、薪はさきと見取ケンシュすべからず。
しるべし、薪は薪の法位ホウイに住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断ゼンゴサイダンせり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、
人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、 生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
たとへば、冬と春のごとし。 冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
〔抄私訳〕
これも喩えとなるのである。確かにたき木が灰となった後、決してたき木とはならない。そうであるのに、生は先、死は後だと思いがちである。また、死んだ後に再び生を受けないと説くのは、断見(死後は断滅するという見解)の外道である。灰身滅智ケシンメッチ(苦行を通して身を死灰古木のようにし、智の作用を死滅すること)して、心と智が共に灰を出ると説くのは二乗(声聞乗・縁覚乗)である。ここでは、「薪は薪の法位に住してさきありのちあり、前後ありといへども前後際断せり」(薪はその時の薪の在り方として存在しており、前と後があり、前後があるといっても、前後のあいだは断たれている)とある。これは、生也全機現ショウヤゼンキゲン〈生も全分のはたらきの現成であり、生は生きり〉、死也全機現〈死も全分のはたらきの現成であり、死は死きり〉の道理に落ち着くのである。しかし、「人の死ぬるのち、さらに生とならず。死の生にならざる、法輪の定まれる仏転なり(慣例となっている仏の説法である)」というのを、間違えて理解して、口伝クデン(師が弟子に口ずから伝えること)を受けなかった連中は、この言葉を見ると、断見の外道の説と同じだとするであろう。決してあってはならないことである。死也全機現の道理であるから、「人の死ぬる後さらに生とならず」と言われるのは、いかにもその趣旨がある。生也全機現の時、生が死になると言わない理である。この意味合いを理解しないでこの文を見れば、誤りもあるであろう。よくよくこのことを斟酌シンシャクすべきである。この道理であるから、「生も一時の位なり、死も一時の位なり」とは、いかにも全機〈全分のはたらき〉の生死の道理に相叶うものである。また、「冬と春との如し。冬の春となると思わず、春の夏になるといはぬなり。」(冬と春のようである。冬が春になると思わず、春が夏になると言わないのである。)とあるのも、この道理である。
生死を引き合いに出して、生は前、死は後だと言ってはならない。生は生の前後、死は死の前後と言うべきである。これを「前後有りといえども前後際断せり」(前後があるといっても、前と後のあいだは断たれている)と言う。この生死は世間の生死と思ってはならない。第一段で、「諸法の仏法なる時節、生あり死あり」〈今向かうとこのようにある時節、生があり死があり〉と言っている生死である。
車輪が回るように生死の苦悩を繰り返して止むことがないこと(輪転生死)と学ぶ時は、不生不滅とは説かない。仏道で不生とは、まったく生ずることがないというのではない。死が生になると説かないのは、死がないというのではない。生より死になると説かないから、小乗の不生は後の業が無いというのに等しく、不生の道理と受け取られる。死は必ずあるが、これを滅と使うのは、小乗の理を証明している意味合いである。その上、すでに三明サンミョウ(無限の智慧)・六神通を具えた大阿羅漢アラカン(悟りの人)となった時、世間で思うような死を解脱することになるのである。「灰となりぬる後、さらに薪とならず」(薪が灰となった後に、決して薪とならない)というのを、小乗の滅であると理解するのは偏った見方である。前後は、生にも死にも使うのである。
〔聞書私訳〕
/前後は正に薪にもあり、灰にもある。薪と灰の前後を論じるべきでないから、「前後際断せり」(前と後のあいだは断たれている)と言うのである。仏法でまったく前後を立てることがない理由も理解できる。すでに「生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり」(生が死になると言わないのは、仏法の慣例)であるから、「不生」と言い、死が生にならないから「不滅」と言うのである。
薪にも前後はなく、灰にも前後はない。薪が薪を証するとき、何に対して前後を定めることができようか。薪と灰の喩えを聞いて、外道の考えでは、「薪はいとなりぬるのち、さらに薪とならぬ」という言葉を引いて、死んだ後に生を受けるはずがないと理解するが、これは誤った考えである。ただ、灰も一時のそのままのありよう(位)、薪も一時のそのままのありようであるべき証拠としてだけに、この言葉を引かれるのである。生死の喩えに引用して理解するのは偏った考えである。
/薪は前、灰は後と理解せず、ただ、全薪・全灰と言って、生也全機現、死也全機現の言葉に合わせるべきである。そうであるから、今はただ薪と灰を、共に全生の方にも全死の方にも理解すべきである。
/ある人は言う、「 人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、 生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。」〈人が死んだ後決して生とならないのに、生が死になると言わないのは、仏法の慣例である。だから不生と言う〉とあるのは、どういうことか。生が死にならない理由があるならば、不死と言うべきであり、不生の言葉は適当ではないように思われる。」と。
/答えるに、これには二つの道理がある。生の上にも不生不滅の道理があり、死の上にも不生不滅の道理がある。これが一つ。次に、世間では生死を繰り返すと言うが、仏法では生也全機現〈生は全分のはたらきの現成である〉、死也全機現と言うので、全機〈全分のはたらき〉の心を取ってこそ不生と言えるという道理もある。不生と言うのに何の疑いもない。
/この道理はよく理解すべきである。生まれて死なないと言えば、不死と言い、死んで生まれないと言えば、不生と言うべきと理解するのは、それはまったく生死に通じていない時のことである。不生の生であるからこそ不死と言い、不死の死であるからこそ不生と言うのであり、この生が即ち不死と言うからといって、不死と言えば、生の理を述べるのではない。また、この死が不生だから、不生と言うのであれば、死の理を言うことにはならない。
/自由自在に勝手な道理を立ててはならない。ただ春と説くときは尽十方界(十方のあらゆる世界)が春であり、夏と説くときは尽十方界が夏と言うべきである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
たき木は灰となるが、決して灰は元に還ってたき木になることはない。(たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。)
そうであるのに、灰は後、たき木は前と見てはならない。(しかあるを、 灰はのち、薪はさきと見取ケンシュすべからず。)
知るといい、たき木はたき木そのものとしての在り方にあって、たき木としての前後があるのである。(しるべし、薪は薪の法位ホウイに住して、さきありのちあり。)〔山にあって立木の時もあり、切り出されてたき木とされる時もあり、釜戸の中で燃やされる時もある。それがたき木としての前後である。〕
前後があるといっても、前後のあいだは断たれている。(前後ありといへども、前後際断ゼンゴサイダンせり。)
灰は灰そのものとしての在り方にあって、灰としての前後がある。(灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。)
そのたき木が、灰となった後、決してたき木とならないように、人が死んだ後、決して生とならない。(かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。)
そうであるのに、生が死になると言わないのは、仏法の慣例である。だから不生〈生滅を超越した絶対の生〉と言う。(しかあるを、 生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。)
死が生にならないのは、仏が常々説かれる教えである。このために不滅〈生滅を超越した絶対の滅〉と言う。(死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。)
生もその時の在り方であり、死もその時の在り方である。(生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。)
具体的に言えば、冬と春のようなものである。冬が春になると思わず、春が夏になると言わないのである。(たとへば、冬と春のごとし。 冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
人間は、たき木は前で灰は後だと考えています〈灰はのち、薪はさきと見取〉。同じように生が前で死が後であり、生から死に移る、昨日から今日に移り、今日から明日に移る、と人間は考えています。これは記憶によって前と後をつなぐ人間の思考の癖です。人間以外の動物たちには、昨日もなく明日もなく、今日すらありません。あるのは今だけです。良いも悪いもなく、豊かも貧しいもなく、幸も不幸もありません。向かうとそのようにあるだけです〈法位に住す〉。事実は、たった今きりであり、一切は生じ跡形もなく滅し、前後の際は断たれています〈前後際断せり〉。あらゆる瞬間は、全宇宙の全分のはたらきのたった今きり〈一時の位〉の現成です。春もたった今きり、冬もたった今きり、今も今きりです。
突然ですが、犬や猫や猿や鳥には、自分という実体はありません。人間も同じです。自分という思いがあるだけです。自分という思いは生滅する無数の思いの中の一つでしかありません。幼児期には自分という思いはありませんでした。ただそのままそのようにあるだけでした〈住法位〉。物心がつく頃までに自分という思いが芽生え、生活と教育を通じてエピソード記憶によって自分という思いが強化され、思春期頃には主人公としての自分が出来上がるようになります。無数にある思いの一つでしかない自分の満足を求めて活動しますが、思い通りに行ったり行かなかったりして、様々な人生劇場が展開していくということになります。
しかし、自分というものは無数に浮かんでくる思いの中の一つでしかありません。不変で実体があるものとしては存在していません。だから、そもそも無い自分は生まれたこともなく、生まれたこともない自分は死ぬこともないのです。不生〈生滅を超越した絶対の生〉である私たちの生命活動の一瞬一瞬は、全宇宙的な全分のはたらきが現前する絶対の今です。出会うと、どうしようとしなくても、ただこの通り絶対の今のありようが現前します。良くも悪くもなく、幸も不幸もなく、迷も悟もなく、自分という思いもなく、たった今ただこのようにあるだけです〈如是〉。
*注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。
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