しばらくこの生死というものをよく参学すべきである。 この四生の諸々の生類の中で、生はあって死がない者があろうか。 (しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。) あるいは、死だけ単伝して、生を単伝しない者があろうか。 (また、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。) 生ばかりで死がない、死ばかりで生がない生類が有るか無いか、 必ず参学すべきである。 (単生単死の類の有無、かならず参学すべし。) わずかに無生の語句を聞いて、それ以上明らかにすることなく、 身心の参学をそのままにしておくような者がいる。 (わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、 身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。) これは愚鈍のはなはだしい者である。 (これ愚鈍のはなはだしきなり。) 信行 (教を信じて行ずること) は漸々に、法行 (法に依って行ずること) は 頓に悟るという論にも及ばない畜生のたぐいと言うべきである。 (信法頓漸 シンポウトンゼン の論にもおよばざる畜類といひぬべし。) なぜかというと、たとえ無生と聞くといっても、 これが言おうとしているところは何であるのか。 (ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、 この道得の意旨作麼生 ソモサン なるべし。) 更に、無の仏・無の道・無の心ということか、無の無生ということか、無の法界・無の法性ということか、無の死ということかと功夫せず、 (さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、 無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、) ただ牛馬が水草のことを念 オモ い続けているように、 むなしく無生ばかりを念い続けているからである。 (いたづらに水草但念なるがゆえなり。) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『正法眼蔵』原文〕 しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、 生はありて死なきものあるべしや。 又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。 単生単死の類の有無、かならず参学すべし。 わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、 身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。 これ愚鈍のはなはだしきなり。 信法頓漸 シンポウトンゼン の論にもおよばざる畜類といひぬべし。 ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、 この道得の意旨作麼生 ソモサン なるべし。 さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、 無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、 いたづらに水草但念 タンネン なるがゆゑなり。 〔抄私訳〕 これは、生ばかりあって死がない者、あるいは死のみ単伝 (このものをこの通り伝える) して生を単伝しない者はあるか、とは、全て生と取る時は生はあり死はない、全て死と取る時は、死のみ単伝して生を単伝しない道理である。だから、「単生単死の類の有無、必ず参学すべし」と言うのである。 「無生」の句を聞くと、ただ生まれることがないとばかり心得て、「工夫をさしおく」事をこのようにいましめられるのである。信行 (他の教を信じて行ずること) は漸々 ゼンゼン に、法行 (自ら法に依って行ずること) は頓 トン に悟るといって「頓漸」に当てることを引き出されるのである。 「たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏・無道・無心・無滅なるべし」とは、仏を無と使う、或いは道・心・滅等を皆無と使うのである。だからこのように説けば、一般に「無生」の言葉に迷うことはないのである。解脱の無、独立の無である。 無々の無というのは解脱の無であり、仏性の上で有無を説くようなことである。 これらの道理を「功夫せず、いたづらに水草但念なるがゆゑなり」 と嫌がられるのである。経に、「但念水草、余無所知、謗 斯 経故、獲罪如是」 (ただ水や草を念じ、余は知る所無く、 斯 の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し) という意である。 〔聞書私訳〕 /「生はありて死なきものあるべしや」とは、生が死とならないので、生はあって死はないとも言えるのである。死が生にならないので、死はあって生はないとも言える。これは、「生也全機現」 (生も全分の働きの現れ