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どのようなものが全世界の宝ですか『第十四古鏡』14-7-1a

  〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。 ちなみに僧ありてとふ、如何是 シュオシ 山中宝《如何ならんか是れ山中の宝》。  この問取の宗旨は、たとへば、「如何是仏 シュオシブツ 《如何ならんか是れ仏》」と問取するにおなじ、「如何是道」と問取するがごとくなり。  師いはく、空華従地発 クウゲヂ゙ュウチホツ 、蓋国買無門 カイコクマイムモン 《空華地より発 ヒラ け、蓋国買ふに門無し》。  この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。 〔『正法眼蔵』私訳〕   大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山縁観門下の尊宿 ( 特に優れた有徳有道の僧 ) である。 (大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。) ある時、僧が慧徹禅師に問う、「どのようなものが全世界 の宝ですか」。 (ちなみに僧ありてとふ、「如何ならんか是れ山中の宝」》) この問いの主旨は、例えば、「どのようなものが仏ですか」と問うのと同じであり、「どのようなものが道ですか」と問うようなことである。 (この問取の宗旨は、たとへば、「如何ならんか是れ仏」と問取するにおなじ、 「如何是道」と問取するがごとくなり。) 慧徹禅師が言う、「 空華と地華は同じものであり、 国中まわって買おうとしても出入する門がない」。 (師いはく、「空華地より発け、国を蓋ふて買ふに門無し」。) 〔全世界が空華だから、どこにも空華を売買できる場所はない。〕 この言葉は、まったくこれ以外の言葉になぞらえることはできない。 (この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。)   どのようなものが全世界の宝ですか『第十四古鏡』14-7-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村
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どのようなものが全世界の宝ですか『第十四古鏡』14-7-1b

  〔『聞書』私訳〕 /「慧徹禅師」の段である。 「大宋国石門山の慧徹禅師に、ちなみに僧が問う、如何是山中宝」とある。 この言わんとする所は詳しくこの巻に見える。つまり、「山中」はよく分からないことではなく、世間の山中と心得て、「宝」をどういうものかと問うのに似ている。しかし、そうではない。 この「山中宝」の三字は「仏」という一字と心得るべきである。「山中」と「宝」は、彼此 (あれとこれ) 能所 (主体と客体) が別ではない。「翳」と「華」、「空」と「地」は、別ではない道理と心得るべきだというのである。 /「蓋国買ふに門無し」とは、国を買おうとしても、値する物がないというようなことである。どのような物が国を離れて、別に値する物があろうかというのである。「空華地より生じる」からには、値する物がないようである。 〔『抄』私訳〕 「大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、 「如何ならんか是れ山中の宝」。この問取の宗旨は、たとへば、「 如何ならんか是れ仏」と問取するにおなじ、「如何是道」と問取するがごとくなり。師いはく、「空華地より発け、蓋国買ふに門無し」。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず」とある。 文の通りである。「如何是山中宝」の言葉は理解しがたい。「山中宝」とは何を言うのかと思われる。もっとも、「仏と問取」し、「道と問取するがごとし」とあるので、疑うべきもない。 「山中」と言うからといって、一般の「山中」と心得てはならない。全世界とも心得るべきである。「宝」もまた金銀珍宝などの「宝」ではない。仏法僧の中の「宝」とも心得るべきである。 また、「空華地より発け、蓋国買ふに門無し」の言葉は、「空華地より発け」とは、「空華」と「地華」は同じ法である道理をもって、「空華地より発け」と言うのである。 「蓋国買ふに門無し」とは、たとえば全国と言うようなことである。祖師の言葉で、常に「買」という言葉をしばしば使う。つまり、全てが国である道理をもって「買」とも「無門なり」とも言うのである。この「買」とも「無門」ともと言う道理は、「買」の外に何もない道理をこのように言われるのである。「出入に門無し」などと言うのと同じ意である。                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。      ...

十方の仏は真実でないのではなく、 もともと眼中の花なのである『第十四古鏡』14-6-3a

〔『正法眼蔵』原文〕  しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、  もとこれ眼中花なり。 十方諸仏の住位せるところは眼中なり、 眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。 眼中花は、無にあらず有にあらず、 空にあらず実にあらず、 おのづからこれ十方仏なり。 いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、 眼中花にあらず、 ひとへに眼中花と欲識すれば、 十方諸仏にあらざるがごとし。 かくのごとくなるゆゑに、 「明得」「未明得」、 ともに眼中花なり、十方仏なり。 欲識および不是、すなはち現成の 「奇哉 キサイ 」なり、大奇 タイキ なり。  仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、  それ恁麼の逞 シン 風流なり。 空華の名字 ミョウジ は経師論師もなほ聞及 モンギュウ すとも、 地華の命脈は、仏祖にあらざれば 見聞の因縁あらざるなり。  地花の命脈を知及せる  仏祖の道取あり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 知るべきである、 十方の仏は真実でないのではなく、 もともと眼中の花である。 (しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、  もとこれ眼中花なり。) 十方の諸仏が住むところは眼中であり、 眼中でなければ諸仏が住む処ではない。 (十方諸仏の住位せるところは眼中なり、 眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。) 眼中の花は、無でもなく有でもなく、 空でもなく実でもない、 自ずから十方の仏である。 (眼中花は、無にあらず有にあらず、  空にあらず実にあらず、  おのづからこれ十方仏なり。) 今ひたすら十方の諸仏を識りたいと思うなら、 それは眼中の花ではなく、 十方の諸仏だけである。 ひたすら眼中の華を識りたいと思うなら、 それは十方の諸仏ではなく、 眼中の花だけである。 (いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中花にあらず、  ひとへに眼中花と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし。) 〔一方を証するときは一方はくらしの道理。〕 このようなわけで、 「明らめることができる」のも、 「まだ明らめることができない」のも、 どちらも眼中の花であり、 十方の仏なのである。 (かくのごとくなるゆゑに、明得未明得、  ともに眼中花なり、十方仏なり。) 「識りたいと思う」のも 「そうでない」のも、 その時に現成する不思議なことであり、 はなはだめずらしいことである。 (欲識および不是、  すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。)...

十方の仏は真実でないのではなく、 もともと眼中の花なのである『第十四古鏡』14-6-3b

  〔『聞書』私訳〕 /「仏々祖々の道取する、空華地華」とは、この「空華」は前々から聞くところであるが、「地華」とはどのようなものか。四季に咲く世間の「花」が「地」より生ずる樹や草に咲く「花」であるから、「地」と言うのかと思われるが、そうではない。 「空」を言うのにも「地」を言うのにも、仏法では大空、 大地とはっきりと示す。今の「地華」の「地」は大地である。大と使うほどになっているから、「空」と「地」を差別することはなく、同じものとして使うのである。 「地」に倒れるものは「空」によりて起きる、などと言った談と同じと理解すべきである。「空華」を「眼中花」とも「仏」とも使っている意の「地華」である。だから、経典学者も論典学者も、「地華」は「見聞の因縁あらざるなり」とも思われる。 〔『抄』私訳〕   「しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中花なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず」とある。 「十方仏」が「眼中花」である道理は以前で明らかである。「十方諸仏の住位せるところは眼中なり」とは、「十方仏」と「眼中」は、ただ一体である道理であるから、このように言われるのである。 「眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり」とある。 「眼中花」は、「有」「無」「空」「実」ではなく、ただ、「十方仏」は「十方仏」の道理である。 「いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし」とある。 これもまた、一方は隠れる道理であり、特に子細はない。 「かくのごとくなるゆゑに、「明得」「未明得」、ともに眼中花なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の「奇哉」なり、大奇なり」とある。 前の段で、「明得、過在十方仏、若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」の言葉を、このように解釈されるのである。「欲識」も「不是」も、「現成の奇哉なり」というのである。 「仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、それ恁麼の逞 シン 風流なり。空華の名字 ミョウジ は経師論師もなほ聞及 モンギュウ すとも、地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。 地花の命脈を知及せる仏祖の道取あり」とある。 「空華」ということは、真・妄の二つについて談ずる言葉である。けれども、「地華...