〔『正法眼蔵』本文〕 しるべし、時節若至は、十二時中不空過 ジュウニジチュウ フクウカ なり。 「若至」は「既至 キシ 」といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至 ブッショウ フシ なり。 しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰 ゴリジショウ なり。 おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。 〔抄私訳〕 ・「時節若至は、十二時中不空過なり」 (時節若至は、四六時間中空しく過ごさないことである) とある。この「十ニ時」は、過去・現在・未来の三世ほどの十ニ時である。これが「不空過」 (空しく過ごさず) である。 ・「時節若至」の若至は、既至 (既に至る) という道理である。「若」には「すでに」という読みがある、ということである。 ・「時節若至すれば、仏性不至なり」とある。これは、「一方を証する時は、一方はくらし」 (一方を明らかにする時は、一方は暗い) という道理である。時節と説く時は仏性は隠れ、仏性と説く時は時節は隠れるのである。これが即ち「衆生快便難逢 シュジョウカイベンナンポウ 」 〈衆生は仏性と同じなので、衆生は快い便宜(仏性)には逢い難い〉 と言われる道理である。 ・「時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり」 (時節が既に至っているので、それは仏性の現前である) と言うので、時節と仏性が同じものである道理が明らかである。仏性の体 (はたらきのもとになるもの) は、「其理自彰 ゴリジショウ なり」 (その理は自ずから彰われているのである) 。 ・「おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず」とある。実に、仏性が現前しない時節は、わずかな間も有るはずがない。「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」 (仏性の現前しない仏性はないのである) という道理も、ただ同じことであると理解すべきである。 〔聞書私訳〕 /「十二時中不空過」 (四六時間中空しく過ごさない) とは、「悉有は仏性なり」の意味合いである。 /「若至」を「既至」と言うのは、「若至」と言うような時は、皆な「至」である。「不至」と言うような時は、尽十方界が皆「不至」である。だから、「若至」を「既至」と言うのである。去る時は満天がともに去り、来る時は全大地がともに来るのである。 /「若至」の言葉は、「悉有」...