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正3-2-2③『第三仏性』第二段その2③〔時節の至らない時節は未だかつてなく、仏性の現前しない仏性はないのである〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 しるべし、時節若至は、十二時中不空過 ジュウニジチュウ フクウカ なり。 「若至」は「既至 キシ 」といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至 ブッショウ フシ なり。 しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰 ゴリジショウ なり。 おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。 〔抄私訳〕 ・「時節若至は、十二時中不空過なり」 (時節若至は、四六時間中空しく過ごさないことである) とある。この「十ニ時」は、過去・現在・未来の三世ほどの十ニ時である。これが「不空過」 (空しく過ごさず) である。 ・「時節若至」の若至は、既至 (既に至る) という道理である。「若」には「すでに」という読みがある、ということである。 ・「時節若至すれば、仏性不至なり」とある。これは、「一方を証する時は、一方はくらし」 (一方を明らかにする時は、一方は暗い) という道理である。時節と説く時は仏性は隠れ、仏性と説く時は時節は隠れるのである。これが即ち「衆生快便難逢 シュジョウカイベンナンポウ 」 〈衆生は仏性と同じなので、衆生は快い便宜(仏性)には逢い難い〉 と言われる道理である。 ・「時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり」 (時節が既に至っているので、それは仏性の現前である) と言うので、時節と仏性が同じものである道理が明らかである。仏性の体 (はたらきのもとになるもの) は、「其理自彰 ゴリジショウ なり」 (その理は自ずから彰われているのである) 。 ・「おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず」とある。実に、仏性が現前しない時節は、わずかな間も有るはずがない。「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」 (仏性の現前しない仏性はないのである) という道理も、ただ同じことであると理解すべきである。 〔聞書私訳〕 /「十二時中不空過」 (四六時間中空しく過ごさない) とは、「悉有は仏性なり」の意味合いである。 /「若至」を「既至」と言うのは、「若至」と言うような時は、皆な「至」である。「不至」と言うような時は、尽十方界が皆「不至」である。だから、「若至」を「既至」と言うのである。去る時は満天がともに去り、来る時は全大地がともに来るのである。 /「若至」の言葉は、「悉有」...

正3-2-2②第二段その2②〔すでに時節は至っている、時々刻々みな仏性である〕

〔『正法眼蔵』本文〕 いはゆる欲知仏性義 ヨクチ ブッショウギ は、たとへば当知仏性義 トウチ ブッショウギ といふなり。 当観時節因縁 トウカン ジセツ インネン といふは、当知時節因縁 トウチ ジセツ インネン といふなり。 いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。 「時節若至」といふは、「すでに時節いたれり、なにの疑著 ギジャク すべきところかあらん」となり。 疑著 ギヂャク 時節さもあらばあれ、還我仏性来 ゲンガ ブッショウライ 《我に仏性を還し来たれ》なり。 〔抄私訳〕 ・「欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり」 とある。仏性と時節の因縁は一つであるということを、知るべきである。その上で引き続き次の文に「いはゆる仏性を知らむとおもはば、しるべし時節因縁是れなり」とある。ますます疑うべきではない。 ・「「時節若至」といふは、「すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらん」となり」 ( 「 時節若至」とは、すでに時節は至っている、何の疑うべきところがあろうか」ということである) とある。時節が至らないことに係らない道理である。だからこのように説かれるのである。 ・たとえ、また、「疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来《我に仏性を還し来たれ》なり」 (仏性を疑う時もあってもかまわないが、衲に仏性を還してもらいたい) とある。疑う時節も仏性である。この道理が「還我仏性来 」と言われるのである。仏性に仏性を還せという意味合いなのである。 〔聞書私訳〕 /「我に仏性を還し来たれ」とは、時節に還せと言う意味合いである。また仏性に仏性を還せともいう意味合いである。また「一切衆生、悉有は仏性なり」の意味合いである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここに言う「欲知仏性義」 (仏性の義を知ろうと欲うなら) というのは、例えば「当知仏性義」 (当に仏性の義を知るべきである) と言うのである。 (いはゆる欲知仏性義 ヨクチ ブッショウギ は、たとへば当知仏性義 トウチ ブッショウギ といふなり。) 「当観時節因縁」 (当に時節の因縁を観ずべし) というのは、「当知時節因縁」 (当に時節の因縁を知るべし) と言うのである。 (当観時節因縁 トウカン ジセツ インネン といふは、当知時...

正3-2-2①『第三仏性』第二段その2①〔仏性の現前する時節は将来にあると考えるのは、間違い〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 時節若至 ジセツ ニャクシ の道 ドウ を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後 コウゴ にあらんずるをまつなりとおもへり。 かくのごとく修行しゆくところに、自然 ジネン に仏性現前の時節にあふ。 時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫 ベンドウ クフウ するにも、現前せずといふ。 恁麼見取 インモ ケンシュ して、いたづらに紅塵 コウジン にかへり、むなしく雲漢 ウンカン をまぼる。 かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道 テンネン ゲドウ の流類 ルルイ なり。 〔抄私訳〕 ・「時節若至の道を、古今のやから往々におもはく」 (「時節若至」の言葉を、古今の連中が往々に思うのに) とある言葉は、文の通りである。 格別変わった事情はないが、これは間違いである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 「時節若至」の言葉を、古今の連中が往々にして思うのに、仏性の現前する時節は将来にあるので、それを待つことだと思っている。 (時節若至 ジセツ ニャクシ の道 ドウ を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後 コウゴ にあらんずるをまつなりとおもへり。) このように修行しているうちに、自然に仏性が現前する時節に出会うのだ。 (かくのごとく修行しゆくところに、自然 ジネン に仏性現前の時節にあふ。) 時節が至らなければ、師に参じ仏法を問うても、修行精進しても、仏性は現前しないと言う。 (時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫 ベンドウ クフウ するにも、現前せずといふ。)   このように考えて、折角仏門に入った者がまたもとの俗世間に帰り、むなしく天の川を見つめる。 (恁麼見取 インモ ケンシュ して、いたづらに紅塵 コウジン にかへり、むなしく雲漢 ウンカン をまぼる。) このような連中は、おそらくは天然外道 ( 自らに具わる清浄本然なる仏法を信じていれば、自然にいつの間にか仏法を明らかにするという仏教以外の教え) の類 タグイ である。 (かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道 テンネン ゲドウ の流類 ルルイ なり。)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 合掌              ...

正3-2-1⑥『仏性』第二段その1⑥〔あの説くこと、実践すること、実証すること、忘れること、錯まること、錯まらないことなども、すべて時節の因縁である〕

〔抄私訳〕 ・「かの説 ・ 行・ 証・ 忘・ 錯・ 不錯等も、しかしながら時節の因縁なり」 (あの説くこと、実践すること、実証すること、忘れること、錯まること、錯まらないことなども、すべて時節の因縁である) とある。 そもそも「仏性の義を知ろうと思えば」の「知」は、誰の所作であるのか。前の第一段で、「悉有は仏性なり」の意義を説くとして、悉有 (あらゆる存在) の一部分を衆生とも言い、仏性とも言う。そうであれば、誰がいて、今知ろうと思うのであろうか。ただ時節の因縁だけである。時節とは仏性である。 〔ここまでの文が経豪 キョウゴウ 和尚の「抄」です。 次段からの/印の文が 詮慧 センネ 和尚の提唱部分で、経豪和尚がいわゆる聞書した内容と判ぜられます。これらの師説を受けて、 前文で、経豪和尚は「抄」文を著したわけです。「聞書」には、詮慧和尚が元天台学僧であった ことから、天台教学を批判しつつ、永平開山の仏法を宣揚している箇所が頻出しますが、 「抄」になるとそういう所は影をひそめ、もっぱら師説を踏まえて『正法眼蔵』そのものの宗旨 を解明することに集中していることが文面から伺われます。〕   〔聞書私訳〕 /今禅宗と名乗る輩は、もっぱら我々の宗 (根本の教え) を謗 ソ しるようなものである。経文や仏の説いた教えを、ほかならぬこの教えを対機説法 (相手の精神的能力や性質などに応じて説法すること) だとして用いない。我々の宗は言語を離れているから、「達磨西来 ダルマセイライ ・不立文字 フリュウモンジ 」 (達磨は西から来て禅宗を伝えた・その教えは文字によらない) と言って文字を用いないのだ理解する。 「直指人心・見性成仏」 (人の心を直接指す・仏に成る本性を見る) と言うからといって、ただ公案 (参究する課題) を額に掛けて (公案に心を常に向けて) おれば仏性は現前するだろうと、教えるときには、この「時節若し至れば仏性現前す」という言葉も世間の理解と同じであり、まったく用いることはできない。 前代の祖師方の、十五年或いは二三十年の修行の労苦は非常に大きいけれども、ただこの行の節操 (かたく守ってかえないこと) を表わすとき、一句或いは一言で明らかにするのは、日頃の修行の労苦によるのである。 悟道の後、十方から来た僧に逢えば、一句を言い一喝 カツ を与える。また互いに...

正3-2-1⑤『仏性』第二段その1⑤〔仏性の義を知ろうと思えば、当に時節の因縁を観ずべきである〕

〔聞書私訳〕 /この「仏性の義を知ろうと思えば、当に時節の因縁を観ずべきである」の文は、様々な理解があろう。教家 (禅宗以外の宗派) では、もっぱら煩悩を断じ苦を断じることに浅深を認めて仏性を表わすので、とりわけ仏性のありようを知りたがるにちがいない。だから、「仏性を知ろうと思えば」と言って、「時節の因縁」を待たせて「時節の因縁」を観じていれば、自然に仏性が現前するはずであると思う。世間に向けて言うときには、言葉も意味もふさわしいと理解されようが、 そうであるなら「天然の外道」と斥 シリゾ けられるのである。〔仏性は待っていても現れない、仏性は今現れるのである。〕 三論宗 (三論を所依の経典とする宗派) などでは、十一家の教義を並べてこれを悉く論破する上で、中道正観 (二見相対を離れた正しい観) を仏性と説く外に他の言葉は無い。 「欲知」 (知ろうと思えば) の知を仏性と説き、「欲知」する人を置かず、時節を待たないなどというところは禅門の道理と似ているが、どうしても段階や階級を離れず 〈禅門では段階や階級はない〉 、中道正観を衆生の姿だと言うだけで、衆生を正観と言わないから、衆生の方へ悪く正観を引き入れようとするのはいかがなものか。 また、真言宗で、「父母から生まれた身で、そのまま大覚位 ダイカクイ(悟り) を証 アカ す」というのも、胎蔵界 (大日如来の理法の世界) ・金剛界 (大日如来の智慧の世界) の両部を父母として生まれた所と説き、それを大覚位と同じとするのは、これも伝わる路があると思われる。また世間の父母より生まれた人を指して、大覚位と言うなら、これは世間の悟りと同じことになろう。 禅門では、「父母所生前」 (父母が生まれる前) と説く時に、父母をおかないから、生まれる道理がない。 「如何なるか是れ父母所生前の面目」 (父母が生まれる前のありようはどうであるか) と問うた時、師は扇を使うだけなのである 〈言葉ではなく今の事実でありようで示している〉 。 天台宗でも、六即 (悟りに至る六段階の位) を立て、六即の内の相似即 (仏の悟りに相似した智慧) の位にあてて説く言葉に、「観法円かなりと雖も銅輪已前にして麁惑 ソハク 前に去る。たとえば鉄を冶 ヤ するがごとし」と言うときに、麁惑 (あらい迷い) を先に除いた後で円かであるとするのは、はなはだかいがな...