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享受されるままが無上のありようである『第十二坐禅箴』12-10-2b

 〔『聞書』私訳〕

/「宏智禅師」の「坐禅箴」。

この「箴」を「大用現前」と言う。この「大用」は、「大」の外に「用」を用いるのではない、「大」がそのまま「用」なのである。「大用」とは、そのまま「坐禅」の「用」を指すのである。


「現前」というのは、そのまま現れることを指す。「用」ということは、教学でも説く。但し、それは大小の用を立て、日月の光は大用、星辰の光は小用などと言うので、今の意味とは異なるのである。


/「莫謗仏祖好」《仏祖を謗ずること莫くんば好し》とは、特別の謗という言葉があるわけではない。ただ「坐禅」の時は、「莫謗仏祖好」と言われるのである。「好」は好しということである。


/「未免喪身失命」とは、坐禅人は必ず「喪身失命」すると心得るのである。その理由は、「坐禅」すれば日頃の身心は脱落するから、「喪身失命」するというのである。


/「坐禅」はまさしく坐仏である。「坐禅」は人間界にあるべきことではないから、たとえ「声色」と言っても「向上」の「声色」であり、日頃の考えに準ずべきではない。


「父母未生前」と言うことがある。人間界を離れている「坐禅」であるから、「莫謗仏祖好」というのもそのわけがある。今の「坐禅」は「仏祖」を謗ずることがないから「莫謗」のところを「好」好いと言うのである。


「未免喪身失命」とは、「坐禅は「坐禅」であるから「喪身失命」するというのである。「頭長三尺頚長二寸」と言うが、このようなものはあるはずがない。今の坐禅人が世間の凡夫と異なるところを言う時にこのように言われるのである。


但しまた、頭というのも頸というのも、世間の人体に対して言う時は驚くが、このような人のいる世界もあるなら、その国の人は驚かないにちがいない。


また、「三尺」というのも「二寸」というのも、世間の丈尺と心得るべきではない。もし尺より寸は長いと知る習わしがあるなら、必ずしも驚くことはないであろう。




〔『抄』私訳〕

「坐禅箴」の「箴」の意味合いは上に注釈した通りである。「用」(働き)とは、水の本体を置いて温かであるのが「用」であると言うが、今の「用」はそうではない。今の「用」は「坐禅」を「用」とするから「大用現前」と言うのである。


「声色向上の威儀」と言うからといって、「声色」の上にまた別の「威儀」があると言うのではなく、そのまま「声色」を「向上の威儀」と取るのである。


「父母未生前の節目」とは、全機の生の姿がこれである。すなわち、今の「坐禅」の姿が、「父母未生前」なのである。


「莫謗仏祖好」も「坐禅」の姿を指すのである。

「未免喪身失命なり」は、今の「坐禅」が「喪身失命」であるということである。


「頭長三尺頚長二寸」などと言えば、そのような異形のものがあるように聞こえるが、そういうことではない。今の「坐禅」の上の「頚の長さ」は、どれくらいであろうか。「三尺」「二寸」の言葉は、長さの尺寸ではない。「無縫塔の高さ七尺八尺」と言い、「世界の広さ一丈」などと言うほどの丈尺である。凡夫が考える寸尺に関わらない尺寸の道理である。



                             合掌

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