スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2025の投稿を表示しています

享受されるままが無上のありようである『第十二坐禅箴』12-10-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕  いはゆる「坐禅箴」の「箴」は、大用現前 ダイヨウゲンゼン なり、 声色向上威儀 ショウシキコウジョウイイギ なり、父母未生前 フボミショウゼン の節目なり。 莫謗仏祖好 マクボウブッソコウ 《仏祖を謗ずること莫くんば好し》 なり、 未免喪身失命 ミメンソウシンシツメイ 《未だ免れず喪身失命することを》 なり、 頭長 トウチョウ 三尺頚長 ケイチョウ 二寸なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕   ここで言う「坐禅箴 ザゼンシン 」の「箴 (いましめ) 」は、 大いなるはたらきが目の前に現れるありようであり、 享受されるままが無上のありようであり、 父母から生まれる前の本来の面目 (思量分別が生じる前のありよう) である。 (いはゆる「坐禅箴」の「箴」は、大用現前なり、声色向上威儀なり、 父母未生前の節目なり。) 仏祖をそしることがなければ好しということであり、 坐禅すれば日頃の身心は必ず脱落するということであり、 坐禅の頭は長く首は短い (長いものは長い短いものは短い) というように今の様子のままにいることである。 (仏祖を謗ずること莫くんば好しなり、未だ免れず喪身失命することをなり、 頭長三尺頚長二寸なり。) 享受されるままが無上のありようである『第十二坐禅箴』12-10-2b                               合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

享受されるままが無上のありようである『第十二坐禅箴』12-10-2b

  〔『聞書』私訳〕 /「宏智禅師」の「坐禅箴」。 この「箴」を「大用現前」と言う。この「大用」は、「大」の外に「用」を用いるのではない、「大」がそのまま「用」なのである。「大用」とは、そのまま「坐禅」の「用」を指すのである。 「現前」というのは、そのまま現れることを指す。「用」ということは、教学でも説く。但し、それは大小の用を立て、日月の光は大用、星辰の光は小用などと言うので、今の意味とは異なるのである。 /「莫謗仏祖好」 《仏祖を謗ずること莫くんば好し》 とは、特別の謗という言葉があるわけではない。ただ「坐禅」の時は、「莫謗仏祖好」と言われるのである。「好」は好しということである。 /「未免喪身失命」とは、坐禅人は必ず「喪身失命」すると心得るのである。その理由は、「坐禅」すれば日頃の身心は脱落するから、「喪身失命」するというのである。 /「坐禅」はまさしく坐仏である。「坐禅」は人間界にあるべきことではないから、たとえ「声色」と言っても「向上」の「声色」であり、日頃の考えに準ずべきではない。 「父母未生前」と言うことがある。人間界を離れている「坐禅」であるから、「莫謗仏祖好」というのもそのわけがある。今の「坐禅」は「仏祖」を謗ずることがないから「莫謗」のところを「好」好いと言うのである。 「未免喪身失命」とは、「坐禅は「坐禅」であるから「喪身失命」するというのである。「頭長三尺頚長二寸」と言うが、このようなものはあるはずがない。今の坐禅人が世間の凡夫と異なるところを言う時にこのように言われるのである。 但しまた、頭というのも頸というのも、世間の人体に対して言う時は驚くが、このような人のいる世界もあるなら、その国の人は驚かないにちがいない。 また、「三尺」というのも「二寸」というのも、世間の丈尺と心得るべきではない。もし尺より寸は長いと知る習わしがあるなら、必ずしも驚くことはないであろう。 〔『抄』私訳〕 「坐禅箴」の「箴」の意味合いは上に注釈した通りである。「用」 (働き) とは、水の本体を置いて温かであるのが「用」であると言うが、今の「用」はそうではない。今の「用」は「坐禅」を「用」とするから「大用現前」と言うのである。 「声色向上の威儀」と言うからといって、「声色」の上にまた別の「威儀」があると言うのではなく、そのまま「声色」を「向上の威儀」と取るので...

宏智禅師の坐禅箴『第十二坐禅箴』12-10-1a

〔『正法眼蔵』原文〕  坐禅箴は、大宋国慶元府 ケイゲンフ 太白名山 タイハクメイサン 天童景徳寺 テンドウケイトクジ 、 宏智 ワンシ 禅師正覚 ショウガク 和尚の撰せるのみ仏祖なり、坐禅箴なり、道得是 ドウトクゼ なり。 ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。 前仏後仏この箴 シン に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。 かの坐禅箴は、すなはちこれなり。  坐禅箴  敕謚 チョクシ 宏智 ワンシ 禅師 正覚 ショウガク  撰   仏々要機、祖々機要。  《仏々の要機、祖々の機要》   不触事而知 フソクニジチ 、不対縁而照 フタイエンニショウ 。    《事を触 ソク せずして知り、縁に対せずして照らす》   不触事而知、其知自微 ゴチジミ 。    《事を触せずして知る、其の知自 オノヅカ ら微なり》   不対縁而照、其照自妙。    《縁に対せずして照す、其の照自ら妙なり》   其知自微、曾無分別之思 ゾウムフンベツシシ 。    《其の知自ら微なり、曾て分別の思 シ 無し》   其照自妙、曾無毫忽之兆 ゾウムゴウコツシシ 。    《其の照自ら妙なり、曾て毫忽の兆 チョウ 無し》   曾無分別之思、其知無偶而奇 ゴチムグウニキ 。    《曾て分別の思無き、其の知無偶にして奇なり》   曾無毫忽之兆、其照無取而了 ゴショウムシュニリョウ 。    《曾て毫忽の兆無き、其の照取ること無くして了なり》   水清徹底兮 スイセイテッチケイ 、魚行遅々 ギョコウチチ 。    《水清 ス んで底に徹 トホ つて、魚の行くこと遅々 オソシ 》   空闊莫涯兮 クウカツマクガイケイ 、鳥飛杳杳 チョウヒヨウヨウ 。    《空闊 ヒロ くして涯 カギ りなし、鳥の飛ぶこと杳々 ヨウヨウ なり》 〔『正法眼蔵』私訳〕 坐禅箴は、大宋国慶元府、太白名山、天童景徳寺、宏智禅師正覚和尚が撰述されたものだけが、仏祖の作であり、真の坐禅箴であり、言われていることは正しいのである。 (坐禅箴は、大宋国慶元府太白名山 天童景徳寺 、  宏智 禅師正覚 和尚の撰せるのみ仏祖なり、坐禅箴なり、道得是 なり。) この坐禅箴だけが世界の表裏を貫き照らす光明であり、 古今の仏祖の中の仏祖によるものである。 (ひ...