〔抄私訳〕
「ゴツゴツと坐して今の様子を会得した人は薬山大師一人だけではないけれども、その様子を表した薬山の言葉はその中で随一である。それは、この思量を離れている今の様子を思量するということである。身心全体で思量している様子もあれば、身心全体で思量を離れている様子もあるのである。」
「薬山の言葉はその中で随一である」ということには二つの意味がある。一つは、坐禅のことを説かれるのは多くの祖師たちもそのことを述べられているが、今の「薬山」の「この思量を離れている今の様子を思量する」という言葉は、群を抜いていると讃嘆された言葉であるということ。
もう一つは、「薬山の言葉」が出るときは、他の祖師たちの言葉はみな「薬山の言葉」に身を隠し、打ち取られて「薬山の言葉」ばかりであるということである。「それはこの思量を離れている今の様子を思量するということである」とは、この言葉の良いところを特に挙げられるのである。
また、「思量」ということは意識について言う言葉であり、「皮肉骨髄」は身体について言う言葉である。そうであるのに、「思量の皮肉骨髄」という言葉は、はなはだ理解できない。もっとも、今の坐禅の姿をすでに「思量」と言うからには、「思量の皮肉骨髄」は坐禅の「皮肉骨髄」でもあるはずである。今さら驚くようなことではないのである。
〔聞書私訳〕
/「ゴツゴツと坐って今の様子を会得した人は薬山大師一人だけではないけれども」という一人は、多くの人の見解をあげる意である。また、宗門についても一つだけではないという意もある。多くの人の見解が一つではないというのは、凡夫・ニ乗(声聞・縁覚)・菩薩などの「思量」のことである。また、今禅宗と名乗っている輩もその一人ではない。
/宗門の見解について一つだけではないというのは、すべての山河大地を「思量」とし、日月星辰を「思量」とするということである。また、磚を磨くことによって「思量」し、鏡にすることによって「思量」するからである。この「思量」は、それぞれのことではないけれども、しばらく「随一」とあげるのである。
/「薬山の言葉はその中で随一である」とは、二に対する一ではなく、単独の一である。ただ、独といっても、縁覚エンガク(縁起の法で悟りを開いた者)が独覚ドッカク(教えを聞かずに、独りで悟りを開いた者)と言われる独の意味ではない。例えて言うならば、「事に触れないで知る」という意味である。
/「唯独自明了、余人所不見」(ただ独りおのずから明了にして、余人の見ざるところなり)と言う、
この経文は、師の教えを受けずに自分で悟るということではない。この「自明了」は尽十方界の自己の明了(はっきりしてよく分かること)である。対する他人がいないから「余人所不見」というのである。つまるところ、自己も不見(見ない)である、不見が自己であるからである。
/「思量の皮肉骨髄であることがある、不思量の皮肉骨髄であることがある」という言葉はよく理解できないが、世間の言葉を超越してしまうと、このように言うのである。
/「思量」が、「思量」を置いて「不思量」と「非思量」という意味合いであるなら、世間の理解と同じである。だから、不の字も無のように思われる。つまり、「思量」が意識でないことを知る時は、「皮肉骨髄」となる。その時、「思量」は去らず捨てず、「兀坐」の面目(本来の姿は「思量」なのである。
/坐禅の「思量」と世間の「思量」は別である。今、仏道を説くときには、世間の言葉を用いてはならない。但し、「思量」もあり、吾我(自我)と言うこともできるのである。これらは仏法上の言葉なのである。
/「思量」が意識でない道理をよく理解すべきである。『普勧坐禅儀』で「意識の活動を止め」というこの意識は、世間の意識と思われるが、これを止めようとすることだと理解するのは邪見である。また、公案を疑っていても、何かに行き着くということがないから、疑が禅の意に当たるという輩がいる。大疑の下に大悟があるなどと言う証拠として引くが、これもまたそういうことではない。
坐禅すればそのまま意識が止んでいるのである。この時の意識を「思量」「不思量」「非思量」と用いるから、坐禅の上で意識を用いようとすれば、「思量」「不思量」「非思量」によって理解すべきである。そうであるから、止まないとも止むとも言うべきではないのである。
意識という言葉も活動という言葉もよくよく理解すべきであるが、坐禅修行が疎かであるときは、意識の言葉も活動の言葉も普段思っているように理解してしまい、今ここの証拠として引く根拠とはならないのである。およそ祖師の言句を無理会話エワ(分別判断で理解できない話)などと言って、ただ疑うべきだなどと言うことも、よくよく考え合わせてみるべきことである。
「思量を離れている様子を思量する」とは、「不悟を大悟する」と言い、「悟った上に悟りを得る人」というほどのことである。
/「三世の不可得」を教家(禅宗以外の宗派)で説くときには、過去はすでに去り、現在は留まらず、未来はまだ来ていない、よって不可得(得られない)であるというのである。また、三界唯心と言い、三界を一心と説くからには三世はないと、このように教家は説いている。
宗門で説くところ「心不可得」(不可得こそ心である)は、三世は心に対してこそ言われるが、「心不可得」と説けば三世はない。また、心に三世を立てる時は、前に説いた三世ではない。過去心と説くときは、現在・未来に対するのではない。過去も変わるところがないものであるから、現在心と説くときは過去・未来に対するのではない。
「従無住法立一切法」(無住の法より一切の法を立つ)であるから、未来心と説くときは過去・現在に対するのではない。今の坐禅の時節を「父母未生前の節目」(父母もまだ生まれない前の条理)と言う理由ユエである。三世の心を「思量」と使い、三世の心を「不思量」と使うこの意味合いは、三世を心であるといっても、心には三世がないからである。この三世は世間で常に言っている三世を指すのである。常の三世とは自己に対しており、自己を離れているのを仏法と言うのである。
/「思量」を「皮肉骨髄」と宗門では説くのである。
/「何が思量の皮肉骨髄か」と言えば答えるといい、
「今の坐禅の姿がそれである」と。
「何が不思量の皮肉骨髄か」と言えば答えるといい、
「今の坐禅の姿がそれである」と。
「何が非思量の皮肉骨髄か」と言えば答えるといい、
「今の坐禅の姿がそれである」と。
合掌
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